2007-07-27
 まず驚いたのは、田倉荘のオヤジが会話の語尾に「だっぺ」をつけることだった。
 東京でもこのあたりの言葉は、標準語とは少し違っていた。
  
 生活もかなり不便だった。
  
 今は多摩モノレールが開通し、周辺もどんどん開発されているようだが当時はひどかった。
 まず、食料品を買える店が近くになかった。
 歩いて2分くらいのところに店があったが、1年のうち半分は休みで、さらに夕方5時になると閉まってしまう。
  
 二番目に近いのが大学生協だったが、生鮮食料品が売っていない。
 三番目に近いのは徒歩15分のところのセブンイレブン。
 だが当時のセブンイレブンには生鮮食料品は売っていなかった。
  
 というわけで、まともな食料品を買うには徒歩30分以上かかる高幡不動まで行くしかなかった。
 電車で行くにしても、一番近い多摩動物公園駅まで徒歩10分歩き、それから電車に乗って高幡不動まで行かなければならなかった。
 我々は、しかたなく1週間に一度、高幡不動の京王ストアまで連れ立って買出しにでかけた。
  
 また、今では伝説になっているらしいが、当時下宿近くの山林には
  「きけん はいるな」
  「まむしもでるよ」
 という看板が本当に立っていて、学生をビビらせていた。
  
 それから、東京とはいえ山の方なので、冬は雪が積もると春まで消えなかった。
 夜になると、もやがあたり一面を覆うことも多かった。
 さらに、近くの多摩動物公園から獣たちの遠吠えがこだましていた。
  
 一言でいうと、まるで過疎地帯だった。
 