少しでもお役に立てましたら、【いいね!】をいただけると嬉しいです♪

Facebookもご覧ください

近頃はフェイスブックに投稿しております。よろしければご覧ください。
https://www.facebook.com/kitanaka1  

北中彰が生まれてから就職するまでの 「回想録」 です。
一番古い記事が一番下にあります。

少しでもお役に立てましたら、【いいね!】をいただけると嬉しいです♪

こんな状態で就職できるのだろうか・・・

 

急遽、大学の級友に助けを求めた。

すると、

「おまえ、シーエスケーって知ってるか?」

と級友が言う。

 

正式名が「コンピューターサービス株式会社」、略してCSKというらしい。

急成長しているコンピューターソフトの会社だとのこと。

そんなにおすすめなら、ということでその級友と一緒にそのCSKを会社訪問した。

 

訪問してみて初めて知ったのだが、コンピューターのソフトウェアは有望だとのこと。

それまではコンピューターはハードウェアの時代だったが、これからはソフトの時代らしい。

それに東証2部に上場したばかりで、破竹の勢いで成長しているという。 

なるほどこの会社、いいかも・・・

 

面接を受けたら、なんとその場で「採用!」と言われた。

あっけなく、一社目の内定がとれたのだ。

だが、これが最初で最後、唯一取れた内定だった。

 

あとで聞いたら、当時CSKは社員4000人の会社だったが、新卒を600人も募集していたらしい。

そして、600人の新卒を集めるために、面接した大学生は全員を採用していたのだ。

誰でも受かるわけだ。

あきれた会社だった・・・

 

それから数日後には、伊豆の研修施設である「大室山山荘」にバスで連れて行かれた。

そこには内定が決まった大学生がたくさんいて、ドンチャン騒ぎの宴会をしていた。

飲むや食うやの大騒ぎ。

普段まともなものを食べていなかった私には、無尽蔵に出される海の幸、山の幸はあまりにも魅力的だった。

そして何もかもがうまかった。

とにかくCSKは、ただ騒ぎまくるだけの学生たちを大歓迎してくれていた。

安易な私はCSKのこの気前のよさが大いに気に入った。

 

「よし、就職はここでいいや。上場企業だから、少しは親にも面子は立つし。」

 

このようして、私の就職先はCSKに決まったのだ。

「もう若くないさ〜」 とつぶやきながら、髪を切った。

大学4年の8月、やっと重い腰を上げて就職活動を開始したのだ。

 

だが、就職するには成績が悪すぎた。

ロクに出席もせず、バイトと麻雀に明け暮れていたから当然といえば当然なのだが、とにかく成績が悪すぎた。

しかし、私大文系にありがちなことだが、出席を取らない授業のおかげで、大学にロクに行ってなかったが試験だけはこなしていたので、卒業できる望みはまだあった。

だが、全くといって勉強もしておらず、新聞も読まず、企業研究もやってないものだから、どこに就職していいかがわからない。

どの企業が有望なのか、何もかわからないので、学生人気ランキングの上位から当たることにした。

無謀な話だったが。

 

当時学生に人気といえば、損保と商社だ。

損保は、東京海上と住友海上、

商社は三菱商事、住友商事、伊藤忠、丸紅に候補を絞った。

さらにこれは無謀な話だった。

 

当時は10月1日が企業と学生が接触を開始できる解禁日だったが、解禁日前の就職活動はのれんに腕押し、糠に釘状態。

まったくいい感触がない。

というか、成績が悪すぎ、かつ常識も知らなかったので、就職するための基礎がなっておらず、全くと言っていいほど企業に相手にされなかった。

成績の悪い、わけのわからない学生と見られたわけだ。

 

こんな状態で就職できるのだろうか・・・

就職活動の厳しさに、不安の日々を過ごしていた。

ブルーバードUに乗る前、一度だけ車を友達と共同所有していたことがある。

 

大学2年の時、以前田倉荘でいっしょだったF君とお金を出し合って、マツダのグランドファミリアを買ったのだ。

グランドファミリアは当時「サバンナもどき」と言われたレシプロエンジン車。

ロータリーエンジンを積んだサバンナRX−3が高くて買えなかった私たちは、一見してサバンナに見えるグランドファミリアを選んだのだ。

 

なぜ共同所有にしたかというと、当時貧乏学生だった私たちには自家用車は高嶺の花で、一人で買う勇気もなかったし、カネもなかったからだ。

京王線の中河原に住む私と、隣の聖蹟桜ヶ丘に住むF君で交互に乗れば、車を半額で所有できるという、今を思えばとても先進的な考えだった。

 

最初は今日はオレ、明日はF君、と交互に仲良く利用していた。

ところがその関係は、すぐにもろくも崩れた。

 

当時私は独り者。

一方、F君は聖蹟桜ヶ丘で彼女の同棲していた。

それも彼女の妹と一緒に同棲していた。

 

今思えば妙な同棲だ。

それはともかくとして、私はひとり、彼は実質的に家族がいたわけだ。

 

ひとりで車を使うのと、家族で車を使うのと、どちらが大義名分が大きいか・・・

 

というわけで、私は「車を使いたい」とは言いにくい状態になってしまったのだ。

これでは何のための共同所有なのかわからない。

 

ほどなくサバンナはF君専用の車になってしまった。

画期的だと思った車の共同所有は、あっけなく幻と消え去った・・・

前編よりつづき) 

 

今は明石海峡大橋があるので、本州から淡路島にはすぐに渡れるが、当時は明石海峡フェリーに乗らないと淡路島には行けなかった。
おまけにお盆休みだ。
徳島では阿波踊りも待っている。

いわんこっちゃない、フェリー乗り場は長蛇の列で、結局8時間も待ってやっとフェリーに乗れたのだ。

 

ようやく淡路島に着いた。 フェリーは淡路島の北端、岩屋港に着くので、四国に行くためには、そこからさらに南にある福良港まで淡路島を縦断しなければならなかった。


車を走らせてみると、淡路島は想像以上に大きかった。
北から南までは50キロくらいあっただろうか。
相当な距離がだった。

 

ようやく福良港にたどりついた。
さあ、いざ四国行きのフェリーだ!

 

ところがどっこい、福良港にもまたまた長蛇の列
結局ここでも6時間も待たされた。

 

今なら大鳴門橋を使えば一瞬で渡れる距離だ。
いやあ、あまりにも四国は遠かった。

 

今は本州四国連絡橋が3本も建設されて、どれも国民の税金が使われた上で大赤字だというが、お盆休み中のフェリーで地獄の苦しみを味わった私としては、本州四国連絡橋もムダではないと思えてしまう。

 

ちなみに、徳島のホンモノの阿波踊りは最高!だった。

話はおもいっきり前後するが、ブルーバードUで四国旅行に行ったことがある。

 

牛乳配達のバイトの先輩が四国出身だというので、一緒に四国に行こうということになった。
その先輩は、徳島県は鳴門市の出身。
そう、うどんとかに乗っかっているあのナルト!
渦巻きのナルトだ。
ナルトの蒲鉾は、鳴門海峡の渦潮に似ているからそう呼ばれているのだ。

そして徳島といえば、阿波踊り!
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ」
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々」
高円寺でやっているアレとは違う。
ホンモノの阿波踊り!

 

というわけで、無謀にもお盆休みに先輩と一緒に徳島に向かった。
いつもは絶対に乗らない高速道路も、先輩が「オレが払う」というので、贅沢にも首都高から東名高速、名神高速と大々大盤振る舞い。
少々渋滞していたが、一般道と違って信号もない・・・

 

ほどなく明石に到着。
さあ、明石海峡フェリーでいざ淡路島だ。
(明石から鳴門に行くには淡路島を経由する)

だが、時はお盆だった。
今なら明石海峡大橋を使えば一瞬のうちに海峡を渡れるが、当時はフェリーしかなかった。
そしてお盆だ。
阿波踊りも待っていた。

 

フェリー乗り場に着いたら、びっくり仰天。 車車車、の長蛇の列。

結局、8時間も待ってやっとフェリーに乗れたのだ。

(つづく)

牛乳配達のバイトは結構給料が良かったので、車でも買おうかと考えていた頃のこと。
 

先輩のトラック運転手が、ハコスカGT−Rを売ってくれると言い出した。
ハコスカGT−Rと言えば、当時も今も幻の名車だ。
それも30万円だと。
 
さっそくその車を見に行った。
牛乳配達基地の駐車場にその「GT−R」は放置してあった。
車検が切れているらしい。
 
ドアを開けた。
シートはレカロのバケットシートだ。
車の中にはロールバーが入っていた。
 
エンジンをかけてくれと頼んだ。
すると先輩はスイッチをカチカチ言わせてエンジンをかけた。
キーを差し込んで回してエンジンをかけるタイプではないらしい。
 
乗ってみた。
すごい加速だ。
さすがGT−R・・・
 
と思ったが、実はただのハコスカ「GT−R」仕様。
つまり普通のスカGを改造しオーバーフェンダーを付け、「GT−R」に似せた車だったのだ。
 
しかし、見たこともないような太いタイヤに、シャコタン(今で言うローダウン)。
ソレックス、タコ足、デュアル。
爆音をたてて走り、見た目はGT−R。
 
これ、乗りたい!と思った。
強烈に魅力的な車ってあるもんだ。
とにかくカッコ良かった。
 
私はもう少しで買うところだったが、なんとか思いとどまった。
 
なぜ思いとどまったかというと、別の先輩運転手がアドバイスをしてくれたからだ。
 
その先輩が言うには、
 買っても車検は通らないぞ。
 リッター3キロは燃費が悪すぎる。
 スイッチでエンジンをかけるというのは、おそらく盗難車だからだ。
 
冷静に考えたら、かなりヤバイ車だった。
あぶない、あぶない。
その頃、愛車ブルーバードUはかなりくたびれてきていた。
 
少し走るとすぐ水温計の針が上昇するのだ。
ラジエーターに穴が開いて、水が漏れているらしい。
 
修理に出すと高くつくので、ラジエーターの穴をふさぐ機能があるという、怪しげな添加剤を入れてだましだまし乗っていた。
だが、やはり安物の添加剤ではラジエーターが直るはずもなかった。
 
放っておくとまずいので、私はラジエーターへの補給用として、牛乳パックに水を入れて車に積むことにした。
 
長距離は走れないが、チョイ乗りならさほど問題はない。
ラジエータの水がなくなる前に、牛乳パックから水を補給すればいいのだ。
 
だが、車を止めてすぐにラジエーターキャップを開けるのは大変危険だった。
沸騰したお湯が噴き出すのだ。
でもそれも、慣れればどうってことはなかった。
 
ある日、私はいつもより少し長い距離を走っていた。
ラジエーターの水を補給しなければならないことはわかっていたが、目的地まではあと少しの距離だった。
なんせその日はラジエーター修理のために、車屋に向かっていたのだ。
修理に行くのだから、少々無理しても大丈夫だろう・・
 
水を補給するとなると、またラジエーターのキャップを開けなければならない。
そうすると、火山のように沸騰したお湯が噴き出す。
これって結構怖いので、もう少しのことだ、大丈夫だろう、と思ってそのまま車を走らせていた。
 
目的地は日野市豊田の日産ディーラーだった。
そして日産まであと1キロくらいになったときのこと。
 
エンジンがカクカク言いはじめた。
水温が上がった時のいつもの音だ。
結構ヤバイが、車屋はもう目と鼻の先だ。
 
私はそのまま車を走らせた。
 
あと数百メートル。
ボンネットのすきまから煙が出てきた。
 
ヤバイ!
 
あと百メートル。
 
そのまま行ってしまえ!
 
到着した。
だが、車からはすごい煙。
あまりの煙に日産の人が数人飛び出てきた。
 
すぐにボンネットを開けた。
あたり一面水蒸気だらけになった。
ものすごい煙。
 
見てもらったところ、ラジエーターはすっからかんだった。
やってしまった。
エンジンを冷却するラジエーターの水がないのにそのまま走らせたので、高温でエンジンがいかれてしまったらしい。
 
エンジンのオーバーホール(修理)は、学生の私にはあまりにも高額だった。
愛車ブルーバードUは、泣く泣く廃車に追い込まれてしまった。
 
哀れなブルーバードUよ。
車をなくした帰り道は、あまりにも寂しく、遠かった。
その日ブルーバードUはアクセルの調子が悪かった。
 
踏み込む時に、カクカクするのだ。
途中でつっかえている感じだった。
 
ま、でも走るからいいか・・・
と始めは気にしていなかった。
 
前方の信号が赤になった。
止まろうとした。
だがブレーキのキキが悪い。
 
あれ、おかしいぞ・・・
 
そのときはブレーキを思いっきり踏み、なおかつサイドブレーキも使ってなんとか止まることができた。
危なかった。
そして止まってから、気づいた。
 
アクセルが踏み込んだままになっている!
 
アクセルが戻らなくなったのだ。
これは困った。
 
弾みをつけたらどうだろうか・・・
 
するとアクセルが戻ってくれた。
アクセルを戻したい場合は、一度少しアクセルを踏んで弾みをつければ戻ってくれることがこれでわかった。
 
さすがの私も、戻らないアクセルには閉口した。
止まる時に、一度アクセルを踏まないといけないのだ。
相当冷静でないとこれは難しい。
 
でも私は修理が嫌いだった。
なんとか修理せずに乗ろうとがんばった。
 
教習所でポンピングブレーキとやらを習ったことがあると思う。
結構難しいものだ。
ブレーキを踏みたいのに、何度かブレーキをゆるめなければならないからだ。
 
だが、アクセルが戻らないブルーバードUは、ポンピングブレーキよりもさらに難関だった。
止まる前に一度アクセルを踏むこと自体、頭も体も、どうしても受け付けてくれないのだ。
 
数日間、そのまま乗っていたが、あまりにも無理があった。
危険すぎた。
 
結局泣く泣く修理に出した。
学生時代、車の修理代はあまりにも高すぎると思った。
 
おそろしいのは 『工賃』 だ。
部品代が数百円でも、工賃は数千円取られる。
自分で直せば部品代の数百円で済むところが、車屋に頼むと途端に数千円もかかってしまう。
 
だから学生時代は、車はなるべく車屋に持ち込まないことにしていた。
少々壊れていても我慢すれば車は走るものだ。
 
さて、その頃愛車ブルーバードUはワイパーの調子が悪かった。
最初は左のワイパーからおかしくなった。
頼んでもいないのに間欠ワイパーになるのだ。
気まぐれで動いたり、動かなかったり。
 
これくらいなんともない・・・
 
しばらく我慢していると、今度は右のワイパーも勝手に間欠ワイパーになってきた。
でも晴れていればそんなワイパー不調も全く気にならないものだ。(当然だが)
 
ワイパーブレードの交換なら数千円で済むが、ワイパー機構の修理となると数万円かかるだろう。
ここは我慢のしどころだ。
 
しばらくして、車で三重の田舎に帰省したときのことだ。
実家で過ごしたあと、私は再度東京に向かっていた。
そのときは東名高速の渋滞を避けるため、長野回りで中央高速を使った。
当時中央高速は甲府昭和インターから勝沼インターまでがつながっていなかった。
名古屋方面から走るといったん甲府昭和で一般道に降り、国道20号を通ってまた勝沼から高速に乗らなければならなかった。
 
私は甲府昭和で高速を降り、勝沼バイパスを勝沼に向かって走っていた。
すると、激しい雨が降ってきた。
当然ワイパーを動かした。
いや、動かそうとした。
が、調子の悪いワイパーはたまにしか動いてくれなかった。
 
まずい、前が見えない・・・
 
ワイパーが動く時は前が見える。
だが、ワイパーが止まったときは、激しい雨で前が全く見えなかった。
 
雨は激しい豪雨に変わった。
もう全く前が見えない。
急いでいたので、車を止めて雨をやり過ごすわけにはいかなかった。
私はしかたなく、窓を開けて頭を外に出して運転することにした。
これなら前は見える。
びしょぬれになるが。
 
たまにワイパーが動いたら、頭を車の中に引っ込めた。
しかしワイパーが止まったら、また頭を外に出すのだ。
びしょぬれになりながら、これを繰り返した。
 
勝沼インターに近づくと、やっと雨は収まってきた。
やれやれ。
 
いくら車の修理が嫌いといっても、ワイパーだけは必需品だ。
ワイパーが動かないと、とんでもない目に遭う。
 
ワイパーって、とってもありがたいものだとつくづく感じた。
昔から車検が嫌いだ。
 
そもそも5万とか10万円とかの安い中古車を買っているのに、2年に1度の車検で10万円以上かかるのは納得がいかなかった。
車検の時に必要な整備をやるのならまだ許せるのだが、どうみても必要とは思えない余計なことをやられてお金を取られるのだ。
 
学生の頃からオイル交換はいつも自分でやっていた。
カー洋品店で1000円もしないオイルを一缶買ってきて、車の下にもぐりこんで自分でオイル交換をやるのだ。
ところが車検となると、頼んでもいないのに勝手にオイル交換をされてしまい、何千円も取られてしまう。
自分でやるよ、そんなこと。
勝手にやらないでよ!
 
車検の時は、それ以外にもどうみてもやらないてもいいことを勝手にやられて、たくさんお金を取られた。
立派に走行できているのに、なぜ無理に修理しなければならないのか。
ホント、許せなかった。
世の中、ユーザーの弱みにつけこんでやりたい放題やるような話がとても多い。
 
そんなユーザーが一方的に不利な車検制度も、最近はかなり改善されてきている。
こちらが直さなくてもいいよ、お金をかけなくてもいいよ、と言えば極端な話、何もせずに手数料だけで車検を通してくれる業者も出てきた。
ホントにありがたい話だ。
 
おかしいものはおかしい。
ユーザーが一方的に不利益を蒙るのはどうみてもおかしい。
 
適正な料金で車検を通してくれる業者のように、ユーザーを不利益から救う仕事って、とても意義ある仕事だと思う。
 
世の中の役に立つ仕事。
ユーザーのさまざまな不便・不利益を解決し、ユーザーを救える仕事。
そんな救世主のような仕事が素敵だと思う。
 
プリンターのカートリッジをできる限り安価で提供したり、オフィスのありとあらゆる問題を解決する私たちスリーイーグループも、ぜひユーザーの味方でありたいと思う。
バイト代を貯めてやっと買った日産ブルーバードUだったが、運転席のドアが外から開かなくなってしまった。
 
キーを閉じ込んで開かなくなったドアを無理やりこじ開けたので、「一度閉めると外からは開かないドア」 になってしまったのだ。
ブルーバードUはハードトップ(2ドア)だったので、残された唯一外から開くドアは助手席側だけだ。
私はしかたなく、降りる時は運転席側から降り、乗るときは助手席側から乗ることにした。
少し面倒だが、それしか方法がない。
しばらくの間はそうしていた。
でもこんな不便も、慣れてくるとたいした手間でもなくなってくるものだ。
 
さて、ある日のこと。
 
車を止めようとしたその道はかなり狭かった。
普通に路上駐車をすると車が通れない。
私は車が通れるように、ガードレールぎりぎりに駐車した。
ぎりぎりに駐車するのは結構得意だったので、ガードレールと車体の間は数センチしかないほどうまく駐車できた。
これで通行の妨げにはならない・・
 
用事を済ませてその後車に乗り込もうとした。
そして、私はその時初めて気付いたのだ。
 
この車、乗れない!
 
ガードレールぎりぎりに止めすぎて、助手席側のドアが開かないのだ。
そう、唯一開くドアである助手席側がガードレールに阻まれて開かないのだ。
 
これにはほとほと困り果てた。
この車にはもう乗れないのかぁ・・・
 
そこに放置して帰るわけにもいかないので、私は今度はウインドウのガラスを無理やりこじ開けることにした。
窓とドアフレームの間の少しのすき間にドライバーを差し込み、ぐりぐり、ぐりぐり・・・
もう、こうなったらドアもウインドウもどうにでもなれ・・
 
やっと無理やりウインドウをこじ開けて、私はベリーロール状態(走り高跳びでバーを包み込むように跳ぶ、あの姿で)で窓から車に乗り込んだ。
キーの閉じ込み(インドアロック)のご経験はおありだろうか?
 
今の車は結構賢くなっていて、キーの閉じ込み防止機能がついていたりする。
車内にキーを付けたままドアをロックしようとしても、ロックできないようなしくみになっているのだ。
だが、昔はそんなしくみはなかった。
 
当時の私は、ドアをロックする時に「鍵穴にキーを差し込んで回す」のが面倒で、いつも「ドアの内側の鍵をかけて、ドアの取っ手を引っ張りながらドアを締め」てドアロックをしていた。
そう、このドアロック方法だと、いつかは「キーの閉じ込み」をやってしまう運命にある。
 
というわけで、私はしばしば「キーの閉じ込み」に悩まされた。
最初はJAFを呼んでドアを開けてもらったのだが、びっくりするほどお金を取られた。
当時でも6000円くらい取られたと思う。
JAFは針金のような道具を使っていとも簡単にドアを開けてくれる。
えっ、それだけ??
えらく簡単じゃないか・・・
 
こんな簡単な作業で6000円も払うのは二度と御免だ。
次からは「キーの閉じ込み」をやった時は自分でドアを開けよう・・・
私はそう固く決意した。
 
さて、その運命の時はすぐにやってきた。
「キーの閉じ込み」をまたやってしまったのである。
 
私は早速JAFの真似をして、運転席側のドアのすきま (そう、ガラスとゴムの間だ) に道端で拾った針金を突っ込んで、JAFがやっていたようにゴシゴシと動かしてみた。
 
でもなかなかドアは開いてくれない。
 
押してもだめなら、引いてみな・・
などと呟きながら、数十分格闘した。
それでも鍵は開いてくれない。
いい加減イライラしてきたので、今度はかなり激しく針金を動かしてみた。
すると、やっとドアのロックが外れた。
 
やったぜ。ちょろいもんだ。
 
だが世の中そんなに甘くはなかった。
一度はそのドアは開いてくれたのだが、二度と正常なドアには戻らなかった。
なんと 「一度閉めると外からは開かないドア」 になってしまったのだ。
鍵の機械部分を針金であまりにもいじり過ぎて、運転席側のドアの鍵がこわれてしまったのだ。

(つづく)

中古車が好きだ。
 
なんといっても新車より安く買える。
新車を買う場合は、予算の都合で欲しいオプションを我慢しなければならなくなって、あとで後悔したりする。
新車を買ってしまってから、なんやかんやとあと付けすると、結局高くついたりカッコがわるくなったりする。
だが、中古車だとフル装備でも安く買える。
 
だいたい新品というだけで高くつく。
ほとんど乗っていない新古車が新車より安くなるのは、だだ「新品ではないから」という理由だけだ。
つまり新品にこだわると損をするのだ。
 
というわけで、私は今まで新車を買ったことがない。
今でも中古車が大好きだ。
 
中古車にあくまでもこだわると、いろいろなできごとに遭遇する。
これからしばらくの間、中古車大好き人間ならではの物語をいくつかご紹介していきたい。
牛乳風呂というのをご存知だろうか。
クレオパトラがその美しさを保つために牛乳風呂に入っていたというのは有名な話だ。
本当に効き目があるのかはわからないが、一度は試してみたいと思う人も多いはずだ。
 
さて、トラックのバイトでは牛乳風呂ならぬ「牛乳の海」によく出くわした。
 
牛乳のケースは、1リットルの牛乳紙パックが16本が入るが、いつも乗っていたトラックはこれを128ケース積むことができた。
スーパーを回るたびにそのケースを降ろしていくわけだが、スーパーではその中身、つまり1リットルの牛乳だけを売るので、当然ながら販売した後はケースが残る。
残ったケースは我々が納品の都度回収するわけだが、これがなかなか都合よくは回収できなかった。
 
牛乳の特売のあとなどは、スーパーの裏手にケースが大量にたまっているのだが、特売自体が終わっているので肝心の納品数が少ない。
降ろすケースの数が少ないので、空ケースを積もうにもコンテナにすきまがないのだ。
スーパーがケースだらけになったらそれこそ苦情が来るし、牛乳工場でもケース不足になるので、積極的な回収が奨励されていたのだが、トラックの運転手側にもケースを回収しなければならない事情があった。
 
それは「コンテナにすきまがあると、牛乳が倒れる」からだ。
納品した分のケースをきちんと積んで帰らないと、すきまがある分だけ牛乳ケースが倒れやすくなるのだ。
 
しかし、空ケースを回収したい時に限って積むケースがなかったりする。
特に特売のときなどは、納品数にくらべて持ち帰るケース自体が圧倒的に不足した。
しかたなく、コンテナがガラガラの状態で帰らなければならない。
そういうときはかなり危険だ。
 
急ブレーキ注意!
急発進注意!
 
わかってはいるのだが、ついつい荷台のことを忘れてしまい、荒い運転ををしてしまう。
そうなると、コンテナの中で牛乳がバッターーン! とばかりに倒れる。
コンテナで牛乳ケースが倒れると、運転席にも結構衝撃が伝わるものだ。
 
やっちまった・・・
あわててトラックを止め、コンテナを開けると、そこは牛乳風呂ならぬ「牛乳の海」だ。
紙パックの牛乳は、倒れるといとも簡単に全部破れる。
紙のパックから一気に牛乳が噴き出すのだ。
倒れ方が激しい時は、コンテナの扉を空ける前から牛乳があふれ出して、道路も牛乳の海になった。
 
こんなことなら最初から牛乳風呂にするべきだった・・
コンテナの床に広がる牛乳の海を掃除しながら、そう思った。
目黒区のあるスーパーマーケットでのできごと。
 
そのスーパーは納品場所が建物の奥にあった。
建物をくぐり抜けてから納品場所に到着するのだ。
そのくぐり抜ける通路の高さが、トラックがギリギリ通過できる高さだった。
 
目黒区は納品経路の始めのほうに位置していたので、いつも牛乳をほぼ満載してその建物をくぐる。
約2トンの牛乳を載せているので、その重量でトラックはかなり「沈んだ状態」になる。
車高が低くなるのだ。
 
少しの量の納品なら、納品後の車高もあまり変わらない。
だがその日はそのスーパーの特売の日だった。
大量の牛乳を汗水たらして降ろし、納品がやっと終わった。
やれやれだ。
 
急いで次のスーパーに向かわなければならない。
心なしかアクセルを強めに踏んで、出口の建物をくぐりぬけようとした。
ところが、
 
ガ、ガ、ガリガリーィーー・・・
 
トラックが建物につかえてしまったのだ。
降りてみるとトラックのコンテナが建物に引っかかって、トラックが動かなくなっていた。
大量の積荷を降ろしたので車高が高くなり、入口の建物を通過できなくなってしまったのだ。
よく見ると、その建物には過去にも何回もトラックが引っかかった形跡が残っていた。
 
しかたがない。
再度通過するには方法はひとつしかなかった。
せっかく降ろした大量の牛乳を、もう一度積み直すしかない。
 
私は再度汗水たらして牛乳を積んだ。
そしてトラックを建物の外に移動させた。
今度は建物の外からかなりの距離を、大量の牛乳を降ろしては運び、降ろしては運んだ。
おかげで合計3回も汗水をたらすことになった。
 
行きはよいよい、帰りは恐い。
 
恐るべし、「通りゃんせ」のスーパーマーケット。
牛乳配送では一番年下の新米だったので、一番ボロいトラックを乗らされた。
それはおそらく15年くらい使っている年代物のトラックだった。
 
加速が悪かったり、サスペンションがふにゃふにゃでカーブを曲がる時に横転しそうになったりしてとても恐ろしい思いをしたが、それらはまだ序の口。
ほかにもうひとつ、そのトラックには致命的な欠陥があった。
ブレーキのキキが悪かったのだ。
 
普通にブレーキを踏むと「キーッ」とばかりに音だけはするが、あまり利かない。
思うように止まるにはポンピングブレーキを踏む必要があった。
 
ある日のこと、配達を終えて甲州街道を下り、桜上水にさしかかったときのことだ。
 
私ははるか前方に左折しようとしているタクシーを見つけた。
今はあるかどうかわからないが、当時桜上水には車一台がギリギリ通れるような幅でポールが2本わざわざ立ててある小道があり、甲州街道を左折する部分にそのポールが立っていた。
車一台がギリギリ通れる幅なので、そこを通るにはかなり減速してポール2本に対して直角になるように通過しなければならない。
わたしが前方に見つけたタクシーは、まさにそのポールをゆっくりと通過しようとしていた。
 
わたしは、まさかそのタクシーがなかなか曲がってくれないとは思わなかったので、そのタクシーに向かってスピードを落とさずに近づいていった。
しかし何秒経過してもそのタクシーはなかなか進んでくれない。
あれ、まさか・・・
 
数十メートルの距離に接近して、初めてわたしはブレーキを踏んだ。
「キーッ」
いつものブレーキ音がしたが、ブレーキが利かない。
焦った。
焦って平常心を失ってしまった。
いつもなら踏む、ポンピングブレーキを忘れていた。
 
「まさか、止まらないってことはないよな」
自問自答しながら、ブレーキを踏み続けた。
だがオンボロトラックは止まってくれなかった。
 
ドッカーン。
追突してしまったのだ。
 
相手がタクシーだと、こういった場合タクシー会社の「事故係」というプロフェッショナルが出てきて厳しくやられてしまう。
学生の私はなすすべもなく、いいようにしてやられてしまった。
休業補償だのなんだかんだで、トラックの保険でおりる金額以外に自腹で17万も払わされるハメになってしまったのだ。
 
恐るべし、整備不良トラック。
トンカツ屋はクビになったが、正直ホッとした。
毎日朝4時に起きてトラックを運転し、はたまたトンカツ屋で夜中まで働くのはやはり無理があった。
 
今日からはトンカツ屋は行かなくてもいいんだ!
そう思うと、天国みたいなものだった。
昼2時ごろには牛乳配送の仕事から解放され、その後は昼寝をしようが、麻雀をしようが自由だ。
 
人間らしい生活に戻った私は、それから土日も休まず牛乳配送の仕事に精を出した。
学生の分際で月収20万以上あったので、貧しかった生活は次第に楽になっていった。
銀行に定期預金なども作ったりした。
 
冬になってくると、朝4時からホンダ「タクト」、つまり原付スクーターで中河原から調布まで通勤するのはつらくなってくる。
身を切るような寒さの中を、原チャリで数十分走るのはこたえる。
というわけで、中古車を買うことにした。
 
日産「ブルーバードU」SSSハードトップは8年落ちで10万そこそこで買えた。
真冬の通勤もこれで快適だ。
 
試験などでたまに大学に行く時も、私はさっそうと車で行った。
大半の大学生は電車通学で、一部のボンボンだけが車で通学していたので、私はいつのまにか友達から「ブルジョア」と呼ばれるようになった。
10万円の中古車でブルジョア(資本家階級)もないのだが、細々と暮らす貧乏学生達からは金持ちに見えたようだ。
朝4時に起きてトラックで牛乳配送。
下宿に帰って少し昼寝して、夕方からはトンカツ屋。
なんだかんだで寝るのが深夜1時を過ぎたりする。
でも翌朝はまた4時起床。
 
普通のバイトならともかく、毎日2トン以上の牛乳を手で荷降ろししてスーパーに配達するバイトだ。
スーパーの中には、エレベーターが使えないところもあって、階段で重い牛乳を運んで何度も往復することもたびたびあった。
中でも忘れもしない超重労働といえば、今は無き渋谷駅前、東急文化会館の地下にあった東急ストアへの納品だ。
特売の日には、なんと牛乳1トン以上を階段を使って運ぶこともあった。
 
そんな重労働だから、毎日体はくたくただ。
2便を終えて下宿に帰ると爆睡するしかない。
毎日毎日重労働を繰り返していると、次第に疲れもたまってくる。
 
そしてついにトンカツ屋に遅刻してしまった。
一回は許してくれたトンカツ屋のマスターも、翌日また遅刻するとついには切れてしまった。
 
「もう明日から来なくていい」
 
クビを宣告された。
 
そして晴れて超ハードな掛け持ちバイトから解放されることになったのだ。
正直ホッとしたのも事実である。
さあ、朝4時起きだ。
 
調布のトラック基地に5時前に出勤なので、電車はまだ動いていない。
通学に使っていたホンダ「タクト」で中河原から調布まで通勤するしかなかった。
夜明け前、街が寝静まる中、ひとり気力を振り絞って起き出して、タクトにまたがり通勤だ。
 
早朝のトラック基地には数十台の2トントラックがひしめき合い、出陣を待っていた。
倉庫はまさに巨大な冷蔵庫。
その巨大な冷蔵庫から、指定された配達コース分の牛乳やプリン、ヨーグルトなどを2トントラックに積み込んで出発するのだ。
 
私がスーパーマーケットに納品するコースは、世田谷通り、246(玉川通り)を経て、青山、赤坂、代々木を回る通称「青山」コース。
朝6時にはトラック基地を出て、渋滞が始まる前に都心へと向かうのだ。
 
朝焼けの日の光を浴びながら、都会を颯爽と飛ばすトラック野郎・・・
そんなカッコの良いものではなかったが、朝の都心はすべてが動き始める寸前で、とてもワクワクする思いがした。
 
2トントラックなので当然2トン弱の牛乳を運ぶのだが、荷物は手で降ろさなければならない。
スーパーごとにどの種類を何本納品と伝票に指定されており、その数を指定場所に置いて回るのだ。
 
1リットル入りの牛乳の重さは1キロ。
16本で1ケースを3ケースずつ降ろして運ぶから、一回約50キロをエイヤっと降ろして運ぶことになる。
これはいい運動になった。
 
行きは2トン満載での走行なので慎重になるが、帰りは空っぽだ。
大渋滞の上り斜線を尻目に、下りの甲州街道をかっ飛ばしてトラック基地に帰り、その後「2便」と呼ばれる追加納品をまた行い、午後2時には仕事が終了。
 
運転手仲間は皆これで仕事が終わりだが、私にはトンカツ屋があった。
少し昼寝して、夕方5時にはトンカツ屋。
夜の11時まで仕事し、すぐに寝て、翌朝4時起き。
 
稼ぐには稼げたが、こんなハードな毎日も長くは続かなかった。
少しでもお役に立てましたら、【いいね!】をいただけると嬉しいです♪

最近の記事

おすすめブログ

トナー・インクのプロ集団 株式会社サップが、販売店様のためにブログで最新情報をご提供!

おすすめサイト

トナー・インクのプロ集団、株式会社サップ の サップウェブ販売サイト