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2012年04月30日

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北中彰が生まれてから就職するまでの 「回想録」 です。
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2008年08月14日

最初で最後、唯一の内定!で就職先決定   〜大学の頃 episode28〜(回想録)

こんな状態で就職できるのだろうか・・・

 

急遽、大学の級友に助けを求めた。

すると、

「おまえ、シーエスケーって知ってるか?」

と級友が言う。

 

正式名が「コンピューターサービス株式会社」、略してCSKというらしい。

急成長しているコンピューターソフトの会社だとのこと。

そんなにおすすめなら、ということでその級友と一緒にそのCSKを会社訪問した。

 

訪問してみて初めて知ったのだが、コンピューターのソフトウェアは有望だとのこと。

それまではコンピューターはハードウェアの時代だったが、これからはソフトの時代らしい。

それに東証2部に上場したばかりで、破竹の勢いで成長しているという。 

なるほどこの会社、いいかも・・・

 

面接を受けたら、なんとその場で「採用!」と言われた。

あっけなく、一社目の内定がとれたのだ。

だが、これが最初で最後、唯一取れた内定だった。

 

あとで聞いたら、当時CSKは社員4000人の会社だったが、新卒を600人も募集していたらしい。

そして、600人の新卒を集めるために、面接した大学生は全員を採用していたのだ。

誰でも受かるわけだ。

あきれた会社だった・・・

 

それから数日後には、伊豆の研修施設である「大室山山荘」にバスで連れて行かれた。

そこには内定が決まった大学生がたくさんいて、ドンチャン騒ぎの宴会をしていた。

飲むや食うやの大騒ぎ。

普段まともなものを食べていなかった私には、無尽蔵に出される海の幸、山の幸はあまりにも魅力的だった。

そして何もかもがうまかった。

とにかくCSKは、ただ騒ぎまくるだけの学生たちを大歓迎してくれていた。

安易な私はCSKのこの気前のよさが大いに気に入った。

 

「よし、就職はここでいいや。上場企業だから、少しは親にも面子は立つし。」

 

このようして、私の就職先はCSKに決まったのだ。


就職〜運命の出会い (会社設立の経緯 episode1) につづく

2008年07月14日

就職活動は厳しかった 〜大学の頃 episode27〜(回想録)

「もう若くないさ〜」 とつぶやきながら、髪を切った。

大学4年の8月、やっと重い腰を上げて就職活動を開始したのだ。

 

だが、就職するには成績が悪すぎた。

ロクに出席もせず、バイトと麻雀に明け暮れていたから当然といえば当然なのだが、とにかく成績が悪すぎた。

しかし、私大文系にありがちなことだが、出席を取らない授業のおかげで、大学にロクに行ってなかったが試験だけはこなしていたので、卒業できる望みはまだあった。

だが、全くといって勉強もしておらず、新聞も読まず、企業研究もやってないものだから、どこに就職していいかがわからない。

どの企業が有望なのか、何もかわからないので、学生人気ランキングの上位から当たることにした。

無謀な話だったが。

 

当時学生に人気といえば、損保と商社だ。

損保は、東京海上と住友海上、

商社は三菱商事、住友商事、伊藤忠、丸紅に候補を絞った。

さらにこれは無謀な話だった。

 

当時は10月1日が企業と学生が接触を開始できる解禁日だったが、解禁日前の就職活動はのれんに腕押し、糠に釘状態。

まったくいい感触がない。

というか、成績が悪すぎ、かつ常識も知らなかったので、就職するための基礎がなっておらず、全くと言っていいほど企業に相手にされなかった。

成績の悪い、わけのわからない学生と見られたわけだ。

 

こんな状態で就職できるのだろうか・・・

就職活動の厳しさに、不安の日々を過ごしていた。

2008年05月29日

幻の共同所有 〜中古車回想録(11)

ブルーバードUに乗る前、一度だけ車を友達と共同所有していたことがある。

 

大学2年の時、以前田倉荘でいっしょだったF君とお金を出し合って、マツダのグランドファミリアを買ったのだ。

グランドファミリアは当時「サバンナもどき」と言われたレシプロエンジン車。

ロータリーエンジンを積んだサバンナRX−3が高くて買えなかった私たちは、一見してサバンナに見えるグランドファミリアを選んだのだ。

 

なぜ共同所有にしたかというと、当時貧乏学生だった私たちには自家用車は高嶺の花で、一人で買う勇気もなかったし、カネもなかったからだ。

京王線の中河原に住む私と、隣の聖蹟桜ヶ丘に住むF君で交互に乗れば、車を半額で所有できるという、今を思えばとても先進的な考えだった。

 

最初は今日はオレ、明日はF君、と交互に仲良く利用していた。

ところがその関係は、すぐにもろくも崩れた。

 

当時私は独り者。

一方、F君は聖蹟桜ヶ丘で彼女の同棲していた。

それも彼女の妹と一緒に同棲していた。

 

今思えば妙な同棲だ。

それはともかくとして、私はひとり、彼は実質的に家族がいたわけだ。

 

ひとりで車を使うのと、家族で車を使うのと、どちらが大義名分が大きいか・・・

 

というわけで、私は「車を使いたい」とは言いにくい状態になってしまったのだ。

これでは何のための共同所有なのかわからない。

 

ほどなくサバンナはF君専用の車になってしまった。

画期的だと思った車の共同所有は、あっけなく幻と消え去った・・・

2008年05月20日

またまた地獄の鳴門海峡フェリー 〜中古車回想録(10)

前編よりつづき) 

 

今は明石海峡大橋があるので、本州から淡路島にはすぐに渡れるが、当時は明石海峡フェリーに乗らないと淡路島には行けなかった。
おまけにお盆休みだ。
徳島では阿波踊りも待っている。

いわんこっちゃない、フェリー乗り場は長蛇の列で、結局8時間も待ってやっとフェリーに乗れたのだ。

 

ようやく淡路島に着いた。
フェリーは淡路島の北端、岩屋港に着くので、四国に行くためには、そこからさらに南にある福良港まで淡路島を縦断しなければならなかった。


車を走らせてみると、淡路島は想像以上に大きかった。
北から南までは50キロくらいあっただろうか。
相当な距離がだった。

 

ようやく福良港にたどりついた。
さあ、いざ四国行きのフェリーだ!

 

ところがどっこい、福良港にもまたまた長蛇の列
結局ここでも6時間も待たされた。

 

今なら大鳴門橋を使えば一瞬で渡れる距離だ。
いやあ、あまりにも四国は遠かった。

 

今は本州四国連絡橋が3本も建設されて、どれも国民の税金が使われた上で大赤字だというが、お盆休み中のフェリーで地獄の苦しみを味わった私としては、本州四国連絡橋もムダではないと思えてしまう。

 

ちなみに、徳島のホンモノの阿波踊りは最高!だった。

2008年05月07日

地獄の明石海峡フェリー 〜中古車回想録(9)

話はおもいっきり前後するが、ブルーバードUで四国旅行に行ったことがある。

 

牛乳配達のバイトの先輩が四国出身だというので、一緒に四国に行こうということになった。
その先輩は、徳島県は鳴門市の出身。
そう、うどんとかに乗っかっているあのナルト!
渦巻きのナルトだ。
ナルトの蒲鉾は、鳴門海峡の渦潮に似ているからそう呼ばれているのだ。

そして徳島といえば、阿波踊り!
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ」
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々」
高円寺でやっているアレとは違う。
ホンモノの阿波踊り!

 

というわけで、無謀にもお盆休みに先輩と一緒に徳島に向かった。
いつもは絶対に乗らない高速道路も、先輩が「オレが払う」というので、贅沢にも首都高から東名高速、名神高速と大々大盤振る舞い。
少々渋滞していたが、一般道と違って信号もない・・・

 

ほどなく明石に到着。
さあ、明石海峡フェリーでいざ淡路島だ。
(明石から鳴門に行くには淡路島を経由する)

だが、時はお盆だった。
今なら明石海峡大橋を使えば一瞬のうちに海峡を渡れるが、当時はフェリーしかなかった。
そしてお盆だ。
阿波踊りも待っていた。

 

フェリー乗り場に着いたら、びっくり仰天。
車車車、の長蛇の列。

結局、8時間も待ってやっとフェリーに乗れたのだ。

(つづく)

2008年02月19日

幻のハコスカGT−R 〜中古車回想録(8)

牛乳配達のバイトは結構給料が良かったので、車でも買おうかと考えていた頃のこと。

先輩のトラック運転手が、ハコスカGT−Rを売ってくれると言い出した。
ハコスカGT−Rと言えば、当時も今も幻の名車だ。
それも30万円だと。

さっそくその車を見に行った。
牛乳配達基地の駐車場にその「GT−R」は放置してあった。
車検が切れているらしい。

ドアを開けた。
シートはレカロのバケットシートだ。
車の中にはロールバーが入っていた。

エンジンをかけてくれと頼んだ。
すると先輩はスイッチをカチカチ言わせてエンジンをかけた。
キーを差し込んで回してエンジンをかけるタイプではないらしい。

乗ってみた。
すごい加速だ。
さすがGT−R・・・

と思ったが、実はただのハコスカ「GT−R」仕様。
つまり普通のスカGを改造しオーバーフェンダーを付け、「GT−R」に似せた車だったのだ。

しかし、見たこともないような太いタイヤに、シャコタン(今で言うローダウン)。
ソレックス、タコ足、デュアル。
爆音をたてて走り、見た目はGT−R。

これ、乗りたい!と思った。
強烈に魅力的な車ってあるもんだ。
とにかくカッコ良かった。

私はもう少しで買うところだったが、なんとか思いとどまった。

なぜ思いとどまったかというと、別の先輩運転手がアドバイスをしてくれたからだ。

その先輩が言うには、
 買っても車検は通らないぞ。
 リッター3キロは燃費が悪すぎる。
 スイッチでエンジンをかけるというのは、おそらく盗難車だからだ。


冷静に考えたら、かなりヤバイ車だった。
あぶない、あぶない。
2008年02月13日

水温がすぐ上がる車を乗り続けるとどうなるか 〜中古車回想録(7)

その頃、愛車ブルーバードUはかなりくたびれてきていた。

少し走るとすぐ水温計の針が上昇するのだ。
ラジエーターに穴が開いて、水が漏れているらしい。

修理に出すと高くつくので、ラジエーターの穴をふさぐ機能があるという、怪しげな添加剤を入れてだましだまし乗っていた。
だが、やはり安物の添加剤ではラジエーターが直るはずもなかった。

放っておくとまずいので、私はラジエーターへの補給用として、牛乳パックに水を入れて車に積むことにした。

長距離は走れないが、チョイ乗りならさほど問題はない。
ラジエータの水がなくなる前に、牛乳パックから水を補給すればいいのだ。

だが、車を止めてすぐにラジエーターキャップを開けるのは大変危険だった。
沸騰したお湯が噴き出すのだ。
でもそれも、慣れればどうってことはなかった。

ある日、私はいつもより少し長い距離を走っていた。
ラジエーターの水を補給しなければならないことはわかっていたが、目的地まではあと少しの距離だった。
なんせその日はラジエーター修理のために、車屋に向かっていたのだ。
修理に行くのだから、少々無理しても大丈夫だろう・・

水を補給するとなると、またラジエーターのキャップを開けなければならない。
そうすると、火山のように沸騰したお湯が噴き出す。
これって結構怖いので、もう少しのことだ、大丈夫だろう、と思ってそのまま車を走らせていた。

目的地は日野市豊田の日産ディーラーだった。
そして日産まであと1キロくらいになったときのこと。

エンジンがカクカク言いはじめた。
水温が上がった時のいつもの音だ。
結構ヤバイが、車屋はもう目と鼻の先だ。

私はそのまま車を走らせた。

あと数百メートル。
ボンネットのすきまから煙が出てきた。

ヤバイ!

あと百メートル。

そのまま行ってしまえ!

到着した。
だが、車からはすごい煙。
あまりの煙に日産の人が数人飛び出てきた。

すぐにボンネットを開けた。
あたり一面水蒸気だらけになった。
ものすごい煙。

見てもらったところ、ラジエーターはすっからかんだった。
やってしまった。
エンジンを冷却するラジエーターの水がないのにそのまま走らせたので、高温でエンジンがいかれてしまったらしい。

エンジンのオーバーホール(修理)は、学生の私にはあまりにも高額だった。
愛車ブルーバードUは、泣く泣く廃車に追い込まれてしまった。

哀れなブルーバードUよ。
車をなくした帰り道は、あまりにも寂しく、遠かった。
2008年01月23日

アクセルが戻らないとどうなるか 〜中古車回想録(6)

その日ブルーバードUはアクセルの調子が悪かった。

踏み込む時に、カクカクするのだ。
途中でつっかえている感じだった。

ま、でも走るからいいか・・・
と始めは気にしていなかった。

前方の信号が赤になった。
止まろうとした。
だがブレーキのキキが悪い。

あれ、おかしいぞ・・・

そのときはブレーキを思いっきり踏み、なおかつサイドブレーキも使ってなんとか止まることができた。
危なかった。
そして止まってから、気づいた。

アクセルが踏み込んだままになっている!

アクセルが戻らなくなったのだ。
これは困った。

弾みをつけたらどうだろうか・・・

するとアクセルが戻ってくれた。
アクセルを戻したい場合は、一度少しアクセルを踏んで弾みをつければ戻ってくれることがこれでわかった。

さすがの私も、戻らないアクセルには閉口した。
止まる時に、一度アクセルを踏まないといけないのだ。
相当冷静でないとこれは難しい。

でも私は修理が嫌いだった。
なんとか修理せずに乗ろうとがんばった。

教習所でポンピングブレーキとやらを習ったことがあると思う。
結構難しいものだ。
ブレーキを踏みたいのに、何度かブレーキをゆるめなければならないからだ。

だが、アクセルが戻らないブルーバードUは、ポンピングブレーキよりもさらに難関だった。
止まる前に一度アクセルを踏むこと自体、頭も体も、どうしても受け付けてくれないのだ。

数日間、そのまま乗っていたが、あまりにも無理があった。
危険すぎた。

結局泣く泣く修理に出した。
2008年01月17日

ワイパーってありがたいものです 〜中古車回想録(5)

学生時代、車の修理代はあまりにも高すぎると思った。

おそろしいのは 『工賃』 だ。
部品代が数百円でも、工賃は数千円取られる。
自分で直せば部品代の数百円で済むところが、車屋に頼むと途端に数千円もかかってしまう。

だから学生時代は、車はなるべく車屋に持ち込まないことにしていた。
少々壊れていても我慢すれば車は走るものだ。

さて、その頃愛車ブルーバードUはワイパーの調子が悪かった。
最初は左のワイパーからおかしくなった。
頼んでもいないのに間欠ワイパーになるのだ。
気まぐれで動いたり、動かなかったり。

これくらいなんともない・・・

しばらく我慢していると、今度は右のワイパーも勝手に間欠ワイパーになってきた。
でも晴れていればそんなワイパー不調も全く気にならないものだ。(当然だが)

ワイパーブレードの交換なら数千円で済むが、ワイパー機構の修理となると数万円かかるだろう。
ここは我慢のしどころだ。

しばらくして、車で三重の田舎に帰省したときのことだ。
実家で過ごしたあと、私は再度東京に向かっていた。
そのときは東名高速の渋滞を避けるため、長野回りで中央高速を使った。
当時中央高速は甲府昭和インターから勝沼インターまでがつながっていなかった。
名古屋方面から走るといったん甲府昭和で一般道に降り、国道20号を通ってまた勝沼から高速に乗らなければならなかった。

私は甲府昭和で高速を降り、勝沼バイパスを勝沼に向かって走っていた。
すると、激しい雨が降ってきた。
当然ワイパーを動かした。
いや、動かそうとした。
が、調子の悪いワイパーはたまにしか動いてくれなかった。

まずい、前が見えない・・・

ワイパーが動く時は前が見える。
だが、ワイパーが止まったときは、激しい雨で前が全く見えなかった。

雨は激しい豪雨に変わった。
もう全く前が見えない。
急いでいたので、車を止めて雨をやり過ごすわけにはいかなかった。
私はしかたなく、窓を開けて頭を外に出して運転することにした。
これなら前は見える。
びしょぬれになるが。

たまにワイパーが動いたら、頭を車の中に引っ込めた。
しかしワイパーが止まったら、また頭を外に出すのだ。
びしょぬれになりながら、これを繰り返した。

勝沼インターに近づくと、やっと雨は収まってきた。
やれやれ。

いくら車の修理が嫌いといっても、ワイパーだけは必需品だ。
ワイパーが動かないと、とんでもない目に遭う。

ワイパーって、とってもありがたいものだとつくづく感じた。
2007年12月13日

車検への疑問 〜中古車回想録(4)

昔から車検が嫌いだ。

そもそも5万とか10万円とかの安い中古車を買っているのに、2年に1度の車検で10万円以上かかるのは納得がいかなかった。
車検の時に必要な整備をやるのならまだ許せるのだが、どうみても必要とは思えない余計なことをやられてお金を取られるのだ。

学生の頃からオイル交換はいつも自分でやっていた。
カー洋品店で1000円もしないオイルを一缶買ってきて、車の下にもぐりこんで自分でオイル交換をやるのだ。
ところが車検となると、頼んでもいないのに勝手にオイル交換をされてしまい、何千円も取られてしまう。
自分でやるよ、そんなこと。
勝手にやらないでよ!

車検の時は、それ以外にもどうみてもやらないてもいいことを勝手にやられて、たくさんお金を取られた。
立派に走行できているのに、なぜ無理に修理しなければならないのか。
ホント、許せなかった。
世の中、ユーザーの弱みにつけこんでやりたい放題やるような話がとても多い。

そんなユーザーが一方的に不利な車検制度も、最近はかなり改善されてきている。
こちらが直さなくてもいいよ、お金をかけなくてもいいよ、と言えば極端な話、何もせずに手数料だけで車検を通してくれる業者も出てきた。
ホントにありがたい話だ。

おかしいものはおかしい。
ユーザーが一方的に不利益を蒙るのはどうみてもおかしい。

適正な料金で車検を通してくれる業者のように、ユーザーを不利益から救う仕事って、とても意義ある仕事だと思う。

世の中の役に立つ仕事。
ユーザーのさまざまな不便・不利益を解決し、ユーザーを救える仕事。
そんな救世主のような仕事が素敵だと思う。

プリンターのカートリッジをできる限り安価で提供したり、オフィスのありとあらゆる問題を解決する私たちスリーイーグループも、ぜひユーザーの味方でありたいと思う。
2007年12月06日

ドアが開かないブルーバード 〜中古車回想録(3)

バイト代を貯めてやっと買った日産ブルーバードUだったが、運転席のドアが外から開かなくなってしまった。

キーを閉じ込んで開かなくなったドアを無理やりこじ開けたので、「一度閉めると外からは開かないドア」 になってしまったのだ。
ブルーバードUはハードトップ(2ドア)だったので、残された唯一外から開くドアは助手席側だけだ。
私はしかたなく、降りる時は運転席側から降り、乗るときは助手席側から乗ることにした。
少し面倒だが、それしか方法がない。
しばらくの間はそうしていた。
でもこんな不便も、慣れてくるとたいした手間でもなくなってくるものだ。

さて、ある日のこと。

車を止めようとしたその道はかなり狭かった。
普通に路上駐車をすると車が通れない。
私は車が通れるように、ガードレールぎりぎりに駐車した。
ぎりぎりに駐車するのは結構得意だったので、ガードレールと車体の間は数センチしかないほどうまく駐車できた。
これで通行の妨げにはならない・・

用事を済ませてその後車に乗り込もうとした。
そして、私はその時初めて気付いたのだ。

この車、乗れない!

ガードレールぎりぎりに止めすぎて、助手席側のドアが開かないのだ。
そう、唯一開くドアである助手席側がガードレールに阻まれて開かないのだ。

これにはほとほと困り果てた。
この車にはもう乗れないのかぁ・・・

そこに放置して帰るわけにもいかないので、私は今度はウインドウのガラスを無理やりこじ開けることにした。
窓とドアフレームの間の少しのすき間にドライバーを差し込み、ぐりぐり、ぐりぐり・・・
もう、こうなったらドアもウインドウもどうにでもなれ・・

やっと無理やりウインドウをこじ開けて、私はベリーロール状態(走り高跳びでバーを包み込むように跳ぶ、あの姿で)で窓から車に乗り込んだ。
2007年11月27日

キーの閉じ込み 〜中古車回想録(2)

キーの閉じ込み(インドアロック)のご経験はおありだろうか?

今の車は結構賢くなっていて、キーの閉じ込み防止機能がついていたりする。
車内にキーを付けたままドアをロックしようとしても、ロックできないようなしくみになっているのだ。
だが、昔はそんなしくみはなかった。

当時の私は、ドアをロックする時に「鍵穴にキーを差し込んで回す」のが面倒で、いつも「ドアの内側の鍵をかけて、ドアの取っ手を引っ張りながらドアを締め」てドアロックをしていた。
そう、このドアロック方法だと、いつかは「キーの閉じ込み」をやってしまう運命にある。

というわけで、私はしばしば「キーの閉じ込み」に悩まされた。
最初はJAFを呼んでドアを開けてもらったのだが、びっくりするほどお金を取られた。
当時でも6000円くらい取られたと思う。
JAFは針金のような道具を使っていとも簡単にドアを開けてくれる。
えっ、それだけ??
えらく簡単じゃないか・・・

こんな簡単な作業で6000円も払うのは二度と御免だ。
次からは「キーの閉じ込み」をやった時は自分でドアを開けよう・・・
私はそう固く決意した。

さて、その運命の時はすぐにやってきた。
「キーの閉じ込み」をまたやってしまったのである。

私は早速JAFの真似をして、運転席側のドアのすきま (そう、ガラスとゴムの間だ) に道端で拾った針金を突っ込んで、JAFがやっていたようにゴシゴシと動かしてみた。

でもなかなかドアは開いてくれない。

押してもだめなら、引いてみな・・
などと呟きながら、数十分格闘した。
それでも鍵は開いてくれない。
いい加減イライラしてきたので、今度はかなり激しく針金を動かしてみた。
すると、やっとドアのロックが外れた。

やったぜ。ちょろいもんだ。

だが世の中そんなに甘くはなかった。
一度はそのドアは開いてくれたのだが、二度と正常なドアには戻らなかった。
なんと 「一度閉めると外からは開かないドア」 になってしまったのだ。
鍵の機械部分を針金であまりにもいじり過ぎて、運転席側のドアの鍵がこわれてしまったのだ。
(つづく)
2007年11月22日

中古車が好き 〜中古車回想録(1)

中古車が好きだ。

なんといっても新車より安く買える。
新車を買う場合は、予算の都合で欲しいオプションを我慢しなければならなくなって、あとで後悔したりする。
新車を買ってしまってから、なんやかんやとあと付けすると、結局高くついたりカッコがわるくなったりする。
だが、中古車だとフル装備でも安く買える。

だいたい新品というだけで高くつく。
ほとんど乗っていない新古車が新車より安くなるのは、だだ「新品ではないから」という理由だけだ。
つまり新品にこだわると損をするのだ。

というわけで、私は今まで新車を買ったことがない。
今でも中古車が大好きだ。

中古車にあくまでもこだわると、いろいろなできごとに遭遇する。
これからしばらくの間、中古車大好き人間ならではの物語をいくつかご紹介していきたい。
2007年11月20日

「牛乳風呂ならぬ牛乳の海」 トラックで牛乳配達のバイトF 〜大学の頃 episode26〜(回想録)

牛乳風呂というのをご存知だろうか。
クレオパトラがその美しさを保つために牛乳風呂に入っていたというのは有名な話だ。
本当に効き目があるのかはわからないが、一度は試してみたいと思う人も多いはずだ。

さて、トラックのバイトでは牛乳風呂ならぬ「牛乳の海」によく出くわした。

牛乳のケースは、1リットルの牛乳紙パックが16本が入るが、いつも乗っていたトラックはこれを128ケース積むことができた。
スーパーを回るたびにそのケースを降ろしていくわけだが、スーパーではその中身、つまり1リットルの牛乳だけを売るので、当然ながら販売した後はケースが残る。
残ったケースは我々が納品の都度回収するわけだが、これがなかなか都合よくは回収できなかった。

牛乳の特売のあとなどは、スーパーの裏手にケースが大量にたまっているのだが、特売自体が終わっているので肝心の納品数が少ない。
降ろすケースの数が少ないので、空ケースを積もうにもコンテナにすきまがないのだ。
スーパーがケースだらけになったらそれこそ苦情が来るし、牛乳工場でもケース不足になるので、積極的な回収が奨励されていたのだが、トラックの運転手側にもケースを回収しなければならない事情があった。

それは「コンテナにすきまがあると、牛乳が倒れる」からだ。
納品した分のケースをきちんと積んで帰らないと、すきまがある分だけ牛乳ケースが倒れやすくなるのだ。

しかし、空ケースを回収したい時に限って積むケースがなかったりする。
特に特売のときなどは、納品数にくらべて持ち帰るケース自体が圧倒的に不足した。
しかたなく、コンテナがガラガラの状態で帰らなければならない。
そういうときはかなり危険だ。

急ブレーキ注意!
急発進注意!

わかってはいるのだが、ついつい荷台のことを忘れてしまい、荒い運転ををしてしまう。
そうなると、コンテナの中で牛乳がバッターーン! とばかりに倒れる。
コンテナで牛乳ケースが倒れると、運転席にも結構衝撃が伝わるものだ。

やっちまった・・・
あわててトラックを止め、コンテナを開けると、そこは牛乳風呂ならぬ「牛乳の海」だ。
紙パックの牛乳は、倒れるといとも簡単に全部破れる。
紙のパックから一気に牛乳が噴き出すのだ。
倒れ方が激しい時は、コンテナの扉を空ける前から牛乳があふれ出して、道路も牛乳の海になった。

こんなことなら最初から牛乳風呂にするべきだった・・
コンテナの床に広がる牛乳の海を掃除しながら、そう思った。
2007年11月16日

「行きはよいよい、帰りは恐い」 トラックで牛乳配達のバイトE 〜大学の頃 episode25〜(回想録)

目黒区のあるスーパーマーケットでのできごと。

そのスーパーは納品場所が建物の奥にあった。
建物をくぐり抜けてから納品場所に到着するのだ。
そのくぐり抜ける通路の高さが、トラックがギリギリ通過できる高さだった。

目黒区は納品経路の始めのほうに位置していたので、いつも牛乳をほぼ満載してその建物をくぐる。
約2トンの牛乳を載せているので、その重量でトラックはかなり「沈んだ状態」になる。
車高が低くなるのだ。

少しの量の納品なら、納品後の車高もあまり変わらない。
だがその日はそのスーパーの特売の日だった。
大量の牛乳を汗水たらして降ろし、納品がやっと終わった。
やれやれだ。

急いで次のスーパーに向かわなければならない。
心なしかアクセルを強めに踏んで、出口の建物をくぐりぬけようとした。
ところが、

ガ、ガ、ガリガリーィーー・・・

トラックが建物につかえてしまったのだ。
降りてみるとトラックのコンテナが建物に引っかかって、トラックが動かなくなっていた。
大量の積荷を降ろしたので車高が高くなり、入口の建物を通過できなくなってしまったのだ。
よく見ると、その建物には過去にも何回もトラックが引っかかった形跡が残っていた。

しかたがない。
再度通過するには方法はひとつしかなかった。
せっかく降ろした大量の牛乳を、もう一度積み直すしかない。

私は再度汗水たらして牛乳を積んだ。
そしてトラックを建物の外に移動させた。
今度は建物の外からかなりの距離を、大量の牛乳を降ろしては運び、降ろしては運んだ。
おかげで合計3回も汗水をたらすことになった。

行きはよいよい、帰りは恐い。

恐るべし、「通りゃんせ」のスーパーマーケット。
2007年11月08日

「恐るべし、整備不良トラック」 トラックで牛乳配達のバイトD 〜大学の頃 episode24〜(回想録)

牛乳配送では一番年下の新米だったので、一番ボロいトラックを乗らされた。
それはおそらく15年くらい使っている年代物のトラックだった。

加速が悪かったり、サスペンションがふにゃふにゃでカーブを曲がる時に横転しそうになったりしてとても恐ろしい思いをしたが、それらはまだ序の口。
ほかにもうひとつ、そのトラックには致命的な欠陥があった。
ブレーキのキキが悪かったのだ。

普通にブレーキを踏むと「キーッ」とばかりに音だけはするが、あまり利かない。
思うように止まるにはポンピングブレーキを踏む必要があった。

ある日のこと、配達を終えて甲州街道を下り、桜上水にさしかかったときのことだ。

私ははるか前方に左折しようとしているタクシーを見つけた。
今はあるかどうかわからないが、当時桜上水には車一台がギリギリ通れるような幅でポールが2本わざわざ立ててある小道があり、甲州街道を左折する部分にそのポールが立っていた。
車一台がギリギリ通れる幅なので、そこを通るにはかなり減速してポール2本に対して直角になるように通過しなければならない。
わたしが前方に見つけたタクシーは、まさにそのポールをゆっくりと通過しようとしていた。

わたしは、まさかそのタクシーがなかなか曲がってくれないとは思わなかったので、そのタクシーに向かってスピードを落とさずに近づいていった。
しかし何秒経過してもそのタクシーはなかなか進んでくれない。
あれ、まさか・・・

数十メートルの距離に接近して、初めてわたしはブレーキを踏んだ。
「キーッ」
いつものブレーキ音がしたが、ブレーキが利かない。
焦った。
焦って平常心を失ってしまった。
いつもなら踏む、ポンピングブレーキを忘れていた。

「まさか、止まらないってことはないよな」
自問自答しながら、ブレーキを踏み続けた。
だがオンボロトラックは止まってくれなかった。

ドッカーン。
追突してしまったのだ。

相手がタクシーだと、こういった場合タクシー会社の「事故係」というプロフェッショナルが出てきて厳しくやられてしまう。
学生の私はなすすべもなく、いいようにしてやられてしまった。
休業補償だのなんだかんだで、トラックの保険でおりる金額以外に自腹で17万も払わされるハメになってしまったのだ。

恐るべし、整備不良トラック。
2007年11月06日

「中古車でブルジョア?」 トラックで牛乳配達のバイトC 〜大学の頃 episode23〜(回想録)

トンカツ屋はクビになったが、正直ホッとした。
毎日朝4時に起きてトラックを運転し、はたまたトンカツ屋で夜中まで働くのはやはり無理があった。

今日からはトンカツ屋は行かなくてもいいんだ!
そう思うと、天国みたいなものだった。
昼2時ごろには牛乳配送の仕事から解放され、その後は昼寝をしようが、麻雀をしようが自由だ。

人間らしい生活に戻った私は、それから土日も休まず牛乳配送の仕事に精を出した。
学生の分際で月収20万以上あったので、貧しかった生活は次第に楽になっていった。
銀行に定期預金なども作ったりした。

冬になってくると、朝4時からホンダ「タクト」、つまり原付スクーターで中河原から調布まで通勤するのはつらくなってくる。
身を切るような寒さの中を、原チャリで数十分走るのはこたえる。
というわけで、中古車を買うことにした。

日産「ブルーバードU」SSSハードトップは8年落ちで10万そこそこで買えた。
真冬の通勤もこれで快適だ。

試験などでたまに大学に行く時も、私はさっそうと車で行った。
大半の大学生は電車通学で、一部のボンボンだけが車で通学していたので、私はいつのまにか友達から「ブルジョア」と呼ばれるようになった。
10万円の中古車でブルジョア(資本家階級)もないのだが、細々と暮らす貧乏学生達からは金持ちに見えたようだ。
2007年11月01日

「ついにトンカツ屋をクビになる」 トラックで牛乳配達のバイトB 〜大学の頃 episode22〜(回想録)

朝4時に起きてトラックで牛乳配送。
下宿に帰って少し昼寝して、夕方からはトンカツ屋。
なんだかんだで寝るのが深夜1時を過ぎたりする。
でも翌朝はまた4時起床。

普通のバイトならともかく、毎日2トン以上の牛乳を手で荷降ろししてスーパーに配達するバイトだ。
スーパーの中には、エレベーターが使えないところもあって、階段で重い牛乳を運んで何度も往復することもたびたびあった。
中でも忘れもしない超重労働といえば、今は無き渋谷駅前、東急文化会館の地下にあった東急ストアへの納品だ。
特売の日には、なんと牛乳1トン以上を階段を使って運ぶこともあった。

そんな重労働だから、毎日体はくたくただ。
2便を終えて下宿に帰ると爆睡するしかない。
毎日毎日重労働を繰り返していると、次第に疲れもたまってくる。

そしてついにトンカツ屋に遅刻してしまった。
一回は許してくれたトンカツ屋のマスターも、翌日また遅刻するとついには切れてしまった。

「もう明日から来なくていい」

クビを宣告された。

そして晴れて超ハードな掛け持ちバイトから解放されることになったのだ。
正直ホッとしたのも事実である。
2007年10月25日

「超ハードなバイト掛け持ち」 トラックで牛乳配達のバイトA 〜大学の頃 episode21〜(回想録)

さあ、朝4時起きだ。

調布のトラック基地に5時前に出勤なので、電車はまだ動いていない。
通学に使っていたホンダ「タクト」で中河原から調布まで通勤するしかなかった。
夜明け前、街が寝静まる中、ひとり気力を振り絞って起き出して、タクトにまたがり通勤だ。

早朝のトラック基地には数十台の2トントラックがひしめき合い、出陣を待っていた。
倉庫はまさに巨大な冷蔵庫。
その巨大な冷蔵庫から、指定された配達コース分の牛乳やプリン、ヨーグルトなどを2トントラックに積み込んで出発するのだ。

私がスーパーマーケットに納品するコースは、世田谷通り、246(玉川通り)を経て、青山、赤坂、代々木を回る通称「青山」コース。
朝6時にはトラック基地を出て、渋滞が始まる前に都心へと向かうのだ。

朝焼けの日の光を浴びながら、都会を颯爽と飛ばすトラック野郎・・・
そんなカッコの良いものではなかったが、朝の都心はすべてが動き始める寸前で、とてもワクワクする思いがした。

2トントラックなので当然2トン弱の牛乳を運ぶのだが、荷物は手で降ろさなければならない。
スーパーごとにどの種類を何本納品と伝票に指定されており、その数を指定場所に置いて回るのだ。

1リットル入りの牛乳の重さは1キロ。
16本で1ケースを3ケースずつ降ろして運ぶから、一回約50キロをエイヤっと降ろして運ぶことになる。
これはいい運動になった。

行きは2トン満載での走行なので慎重になるが、帰りは空っぽだ。
大渋滞の上り斜線を尻目に、下りの甲州街道をかっ飛ばしてトラック基地に帰り、その後「2便」と呼ばれる追加納品をまた行い、午後2時には仕事が終了。

運転手仲間は皆これで仕事が終わりだが、私にはトンカツ屋があった。
少し昼寝して、夕方5時にはトンカツ屋。
夜の11時まで仕事し、すぐに寝て、翌朝4時起き。

稼ぐには稼げたが、こんなハードな毎日も長くは続かなかった。
2007年10月19日

「収入を増やす方法」 トラックで牛乳配達のバイト@ 〜大学の頃 episode20〜(回想録)

ろくに勉強もしなかったのに、中央大学はなぜだか私を進級させてくれた。

そして大学3年生になった。

1・2年では、出席を取るのは語学の授業だけだったのだが、3年になってその語学の授業もなくなった。
すべての授業が出席を取らなくなったのだ。

これはどうみても、大学には来るな!という意味だ。
私はそう解釈した。


さて、それまで授業や麻雀の合い間にバイトをしているだけでは、なかなか生活は楽にはならなかった。
時給500円や600円で4時間、5時間働いても、月に5万円くらいしか稼げないのだ。

働けど働けど 我が暮らし楽にならざり ぢっと手を見る    −−石川啄木
などとは言ってられなかった。
なんとか、もっと収入を増やす方法はないものか・・・

大学は授業に来なくていいと言っているので、私は大学には行かないことに決めた。
そして稼げるバイトを探し始めた。

時給が高いといえば、激しい肉体労働。
または、深夜・早朝の労働。
もしくは、リスクを伴う労働・・・

収入を増やすには、長時間労働。
はたまた、バイトを掛け持ちするか・・・

そして私は、ついに早朝出勤のトラック配送のバイトを見つけた。
大手牛乳会社でスーパーマーケット向けに、2トントラックで牛乳を配送するという仕事だ。

朝5時に出勤して昼の2時くらいまで働けば、一日8000円はもらえるという。
学生にとっては、稀に見る高収入のバイトだ。

もう迷うことはない。
それまでやっていたトンカツ屋のバイトは夕方からなので、牛乳のトラック配送とトンカツ屋を掛け持ちで、収入を増やそう!

 (激しい肉体労働)+(早朝労働)+(交通事故リスクのある労働)=高い時給
 (高い時給)+(バイト掛け持ち)=高い日給

これしかない!

こうして、毎朝4時起き、バイト掛け持ちの超ハードな生活が始まった。
2007年10月12日

トンカツ屋のバイト 〜大学の頃 episode19〜(回想録)

山口下宿のすぐ近く、京王線中河原駅前にあるトンカツ屋のバイトを見つけた。

賄い付で時給600円。
その賄いとは、上質のトンカツにキャベツ大盛りの定食が仕事終了後に食べられるという、飢えた私にはこの上もなく魅力的なものだった。

仕事はといえば、簡単なキャベツの盛り付けをしたり、味噌汁やご飯をよそったり、それと皿洗いくらいで、とても簡単なものだった。

かんたん楽チンなそのバイトも、ひとつだけつらいことがあった。
それは、とても「ヒマだった」ことだ。

店の経営者(マスター)はボンボン育ちで、さして苦労もせずトンカツ屋を始めたらしく、お客さんを集める努力を怠っていた。
だから、滅多に店が混むことはなかった。

そうするとヒマな時間が多い。
ヒマだと、バイトの私はずっと何もせずに立っていなければならない。
余りにもヒマな時間が続くと、マスターがイライラしてくる。

別に何もする必要がないはずのに、イライラをバイトにぶつけてくるのだ。
あそこを掃除しろ、あそこを拭け・・・

つらいのはそれくらいだったのだが、そういう楽チンなバイトでも、ついにはクビを宣告されることになる。
2007年10月05日

お歳暮配達のバイト 〜大学の頃 episode18〜(回想録)

全くもって、不公平で、理不尽すぎるバイトをやったことがある。

それは東京都府中市にある、ある運送会社でのお歳暮配達のバイトだった。

免許とりたてということもあって、車が運転したくてたまらなかった私は、少々バイト代が安くてもいいや!と思い、トラックが運転できるこのバイトを始めた。
大好きな車の運転ができて、バイト代ももらえるのは、まさに一石二鳥だ。
そのバイト代は、お歳暮を1個配達すると80円もらえるというものだった。

さあ、がんばって稼ごう!
配達するトラック一杯のお歳暮と、地図を渡されて、張り切って京王線聖蹟桜ヶ丘駅近くの配達エリアに向かった。

ところが、渡された地図はえらく大雑把なものだった。
配達エリアの細かな番地が載っていないのだ。
届け先の住所とその地図だけでは、どこに何さん宅があるのか、いくらさがしても見つからなかった。
当時はもちろんカーナビなんて便利なものはないので、これには参った。

こういうときは、トラックの存在自体も邪魔になってくる。
結局、トラックを置いて、徒歩で必死になってお歳暮の届け先をさがし回った。

まる1日かけて、へとへとになって働いたが、健闘むなしく、配達できたのは20個くらいだけだった。
結局、ほとんどの荷物を配達基地まで持ち帰るハメになってしまった。

悲惨なことに、1日働いて収入はたった1600円。

あとで聞いてみて、驚きのカラクリがわかった。

マンション・団地などの配達しやすいところは、全部ベテラン社員たちが独占していて、メチャクチャ配達しにくい「残りものの地域」が私たちバイトに与えられていたのだ。

マンション・団地などは、届け先が集中しているので、一箇所で数十個のお歳暮がいっぺんに配達できる。
これによって、ベテラン社員達は、苦労なくいとも簡単に給料が稼げるのだ。
そういう楽なところはバイトには一切回って来ないという、インチキバイトだったのだ。

1日かけて、へとへとになって配達した私はあまりにも愚かだった。
ホント、ひどい話である。
2007年10月01日

家庭教師のバイト 〜大学の頃 episode17〜(回想録)

一度だけ、家庭教師をやったことがある。

時給500円とか600円に甘んじていた私たちには、『家庭教師』は確実に時給1000円以上が期待できる理想のバイトだった。

ところが、東大生ならいざしらず、中央大学では家庭教師の口をさがすのはかなり難しかった。
でも時給1000円を求めて、いくつかアイデアを実行してみた。

まず大学のバイト募集の掲示板に「家庭教師やります」と貼り出した。
でも反応がない。
しかたがない、こんどは電柱にビラを貼ろう・・・

山口下宿の周辺、特に京王線中河原駅の周辺の電柱に「家庭教師やります」と貼り出したのだ。
そして何日か経って、ついに反応がきた!

家庭教師先は、山口下宿のすぐ近くの女子中学生だ。
時給1000円で、夕食もごちそうになれるという好条件だった。

喜び勇んで、はりきって家庭教師をやったが、でもそれも長くは続かなかった。

決して教え方がヘタだったとは思わないが、その女子中学生とウマが合わなかったというか、かなり生意気な中学生で、教えている最中にも険悪な雰囲気になることがたびたびあった。
あるいはあまりにも腹が減りすぎていて、女子中学生の家族と夕食をとるときに、ガツガツとやたらめったら食べすぎてひんしゅくを買ったのかもしれない。

次第にお呼びがかからなくなり、ついにはせっかくの時給1000円も2ヶ月くらいで泡と消えてしまった。

やはり、時給5〜600円のバイトに耐えるか、激しい肉体労働の世界に足を踏み入れるしかないのだろうか・・・・
2007年09月26日

感電するバイト 〜大学の頃 episode16〜(回想録)

大学2年の頃は、いろいろなバイトにチャレンジした。

ある日、結構いいバイトを見つけた。
掃除のアルバイトで、時給600円ももらえるという。
話を聞いてみると、工場の掃除だという。

結構、カンタンだな・・・

そう思って早速バイトに行った。
が、決して甘くはなかった。

連れて行かれたのはNECの工場だった。
行ってみると、工場の天井についている、やたらと長い蛍光灯とその傘を掃除する仕事だった。

蛍光灯も蛍光灯の傘も、ドロドロに汚れていたが、洗剤を使えば見違えるほどきれいになった。
それまで暗かった電灯も、洗剤で拭いた後は何倍も明るくなるので結構楽しかった。

だが、ひとつだけ問題点が、それも致命的な問題点があった。

蛍光灯を拭いている間も、電気が通じっぱなしだったのだ。
根が真面目だから、蛍光灯のソケットまできれいに掃除してしまうのだが、そのたびにビリビリと感電するのだ。

感電する感覚も異様なものだが、それ以上に気になったのは、感電したときに自分の体から焼けたようなにおいがしてくることだった。

それでも次第に感電にも慣れてくるものだ。
だんだん感電自体が快感に変わっていくのが怖くなって、そのバイトもついに行かなくなった。
2007年09月17日

麻雀放浪記B 〜大学の頃 episode15〜(回想録)

ギャンブルをやると人の本性が出るという。

普段真面目で温厚に見えるヤツが、麻雀となると途端に豹変し、本性をむき出しにしたりするから、結構面白い。

ある日、また山口下宿で麻雀をやっていた。
若い頃は、人を傷つけることなど気にするヤツは少なかったので、皆、自分のアガリとなると、何かしら「どうだ!」とばかりのコメントを言うことが多かった。

麻雀の待ちでいうと、平和(ピンフ)三色(サンシキ)などは、高目と安目(点数が高いアガリと安いほうのアガリ)が極端に点数に差があって、特にリーチをかけた場合などは運任せなので、高目が出ると素直に嬉しいものである。

その日、私は高目が平和三色のリーチをかけていた。

で、高目が出たのだ。
裏ドラも乗って、ハネ満だ。

いつも通り、「高目!」と叫んで、どうだ、とばかりに牌を倒した。

すると、振り込んだ普段おとなしい後輩が、目をむいて突っかかってきた。

「バカめ、とは何ですか。バカめとは!」

普段おとなしいヤツに限って、こういう時にわけのわからないキレかたをするから、ギャンブルとは恐ろしいものだ。
2007年09月15日

麻雀放浪記A 〜大学の頃 episode14〜(回想録)

◇天和

麻雀には役満という最高役があるが、その中でも滅多にできないといわれているのが「天和(テンホー)」だ。
天和とは、親が配牌(ハイパイ)でいきなり上がっているもので、一番安い上がり役が1,000点のところ、天和は48倍の48,000点だ。
「天和をやると死ぬ」ともいわれており、雀士の憧れの役である。

ある日、麻雀をやり始めたばかりの後輩である伊藤君を入れて卓を囲んでいたときのことだ。
親の私は、配牌から捨てる牌を探していた。
麻雀というものは、親が一牌切らないとゲームが始まらない。
だが、いくら探しても捨てるモノはなかった。

「天和だ!!」

一同、始めて見る天和に大歓声を上げた。
おそらく生きているうちに天和を見るのは、これが最後だろう。
みんな大興奮だ。

ところが伊藤君だけはきょとんとしている。
そして彼が発した言葉は・・・

「それって高いの?」

一同、ひっくり返った。
2007年09月14日

麻雀放浪記@ 〜大学の頃 episode13〜(回想録)

大学時代は、とにかく麻雀とバイトばかりやっていた。
そればっかりやっていたので、いろいろな物語が生まれた。

◇山口下宿、7人総当たり戦

当初、山口下宿のみんなが麻雀をやるわけではなかったが、一人残らず強引に誘い込んだ。
そしてていねいに、手取り足取り教えてあげた。
太らせて食べようとしているとは知らずに、皆喜んで麻雀を覚えてくれた。

私の発案で、山口下宿の7人で総当たり戦をやったことがある。
すべての組み合わせを計算すると、
 7C4=7!/(4!×3!)=35試合となる。

最後の方になるとゼミで忙しいだの、部活があるだのいう人間が出てきて人集めが大変だったが、なんとか全試合をこなした。
35試合を達成して、喜んでいたのは私だけだったかもしれない。
2007年09月12日

ゲームセンターのバイト 〜大学の頃 episode12〜(回想録)

鎌倉街道が多摩川を渡る橋が関戸橋。
その関戸橋のたもとに当時あったのが、さくらサンリバーというビルだ。
そう、サクラショウリなど数多くの名馬を輩出したサクラコマースが経営するビルだ。

さくらサンリバーには、焼肉のたれで有名な「モランボン」という焼肉屋とボウリング場があったが、そのボウリング場の中にゲームセンターがあった。

さて本題に入るが、山口下宿の友達がこのゲームセンターのバイトを見つけてきた。
仕事は、ゲームセンターの見張り番。
時給500円で、一見して特に魅力がないように見えたが、ところがどっこい、これが実に楽しいバイトだった。

ボウリング場というものは、平日の昼間はほとんどお客さんは来ない。
だからゲームセンターもガラガラ。
そうすると仕事は何もない。
ということで、出勤してから帰るまで、延々とゲームをして遊べるのだ。

ゲーム代金はというと、すべてのゲーム機の鍵を持っているので、いくらでもCREDITを増やすことができた。
つまりゲーム代はタダだった。

時給500円をもらって、タダでありとあらゆるゲームで遊ぶことができたのだ。
あまりにも楽で、楽しいバイトなので、このバイトは山口下宿の中で奪い合いになった。

俺にやらせろ!
いや、お前は今月はやりすぎだ!
そんなことはない、俺の番だ!・・・・

さて、このゲームセンターはエスコ貿易という会社が経営していたが、エスコ貿易はその後セガに買収された。
一方で、私は大学卒業後CSKに入社したのだが、その後CSKはセガの親会社になった。
そしてその時私の上司になった人は、エスコ貿易の元社長だった。

縁は異なもの、味なものである。
2007年09月10日

府中に引越し 〜大学の頃 episode11〜(回想録)

大学入学時は土地勘がないまま、大学に一番近い、多摩動物公園から徒歩10分のところにある田倉荘を選んで住んではみたが、そこはあまりにも不便すぎた。
3畳の部屋もあまりに粗末で、貧しい暮らしにも限度があった。

すこしだけバイトでお金が貯まったので、思い切って大学2年の春から引越しをすることにした。

今度は東京都府中市、京王線中河原駅徒歩3分にある、山口下宿だ。

山口下宿は、山口さん宅の2階にあった。
家賃は13,000円。
3畳から出世して、こんどは4畳半!
あこがれの4畳半!

山口さん宅の2階には同じような4畳半が7部屋あり、トイレは共同、流しも共同、ガスコンロも共同、風呂はなし、これが山口下宿だった。

中河原は、多摩動物公園周辺に比べるとはるかに都会だった。
動物園の獣達の遠吠えも聞こえないし、まむしも出そうになかった。
駅前にはスーパーなどもあって、買い物にも事欠かなかった。

やっと東京らしい生活が始まった。
2007年09月06日

麻雀に明け暮れる 〜大学の頃 episode10〜(回想録)

三重の田舎から上京した当初は、軽いホームシックにかかった。
少しずつ田倉荘の学生達と友達になっていったが、司法試験の勉強も断念したし、バイトもそんなに頻繁にあるわけでもなかったので、淋しさを何かで紛らわすというか、何かで暇をつぶす必要があった。

で、麻雀である。

当初コテンパンにやられた。
高校の頃やっていた麻雀は、あれは麻雀ではなかった。
とにかく「カモ」にされたわけだ。

これではいけない、と奮起して、むきになって麻雀を研究した。
というか、麻雀をやりまくった。

大学に行く目的は、麻雀の面子集め。
田倉荘に帰ったら、また麻雀。
起きたら麻雀、寝ないで麻雀。

私の大学生活はこうして大きく道を踏み外し、完全に方向性を見失っていった。
2007年08月31日

中古自転車の苦い思い出 〜大学の頃 episode9〜(回想録)

田倉荘の周囲には何もなく、とにかく徒歩だけでは不便だったので、なけなしのお金をはたいて中古自転車を買うことにした。

今なら新品自転車でも中国製なら1万円くらいで買えるが、当時は新品はそんなに安くはなかった。
たった4万円の仕送りと時給500円のバイトでは、中古しか買えなかったのだ。

いろいろ探し回って、友達が住んでいた府中市の自転車屋でやっと中古自転車を見つけた。
一台12,000円だった。
一応変速機付きで、まあまあの買い物だった。

ある日、友達のところへ自転車で遊びに行った帰りに、突然警察官に呼び止められた。
自転車を止めて、盗難物かを調べる・・・
よくある話だ。

何もやましいところはないので、自信たっぷりに自転車を見せた。
ところが、防犯登録番号をチェックされて・・・

「盗難自転車だ。おまえ、盗んだな!」

そのまま府中警察まで連れて行かれた。
濡れ衣である。

完全に泥棒扱いだった。
警官は全く聞く耳を持ってくれなかった。
認めるわけにはいかないので数十分抵抗して、やっと「じゃあ、その自転車屋に連れて行け」ということになった。

そして、めでたく冤罪を晴らしたのだ。

あの自転車屋、警官の前では白々しかった。
わざと盗難自転車を売りつけたくせに。
2007年08月29日

多摩動物園のえさ刈りのバイト 〜大学の頃 episode8〜(回想録)

時給500円だと、8時間働いても4,000円。
丸一日潰して働いてもこれだけの収入にしかならないのはキツかった。
せっかく一日働いても、飲み会に行くだけでその稼ぎが吹っ飛んだ。

 

何か他にいいバイトはないものか・・・
まったく厚みを増さない財布を見つめながら悶々としていると、田倉荘の友達がいいバイトを見つけてきた。

 

多摩動物園のえさを刈り取るバイトだ。
時給はなんと1,000円!

 

朝5時に田倉荘まで車が迎えに来て、昭島の牧草地まで連れて行かれ、そこで2時間程度働くというものだ。
草刈り機で刈り取られた「動物用の草」を束ねて、トラックに積み込む肉体労働だった。

 
時給1,000円に釣られて、田倉荘の貧乏学生が数人集り、このバイトを始めた。


しかしやってみると問題点があった。

 

まず、移動に往復で2時間もかかることだ。
もうひとつは、全身が衣服と共にドロドロに汚れ、かつ強烈な「草の臭い」がしみついてしまうことだ。

 

朝早く起きて、汚くて、たいへんな重労働で、移動時間を含めると4時間かかって、バイト料は2,000円だけ。
結局、時給500円のバイトと変わりがないということにあとで気づいた。

 

しかし楽しいこともあった。
たまに開園前の誰もいない、朝の多摩動物園に入れたのだ。
普段は徒歩でしか入れない園内を、草を積んだトラックで回り、キリンや象、サイなどを間近に見ながらえさを配ることができたのだ。

 
朝の園内は、孔雀が羽を広げて走り回ったり、象が腹をすかせて暴れ回っていたり、普段は決して見ることができない光景が広がっていた。
2007年08月27日

高幡寿司でのアルバイト 〜大学の頃 episode7〜(回想録)

もう少しいいバイトはないかと探したところ、京王線高幡不動駅前にある、すし屋のバイトが見つかった。

時給500円だが、「賄い」つきだった。
夕食として、無料であこがれの江戸前寿司が食べられるのだ。
当時はもちろん寿司など食うお金はなかったので、これはたいへん魅力的だった。

というわけで、高幡寿司でバイトを始めた。

やることは皿洗い程度なのだが、店を閉めたあと、たまにいくら・うになどの高級ネタを食べさせてもらえた時は、とても幸せな思いがした。
普段劣悪な食生活をしていた大学時代の私が江戸前寿司を食べられたのは、唯一この時だけだった。

それから高幡寿司のオーナーは、学生の私に対して、たまに出前用の軽自動車を貸してくれた。
車の免許を取って間もなかった私は、とにかく車を運転したくてしかたがなかったのでこれは嬉しかった。

私が車を借りて田倉荘に乗って帰った時は、田倉荘の貧乏学生達は歓喜した。
この時とばかりに「車で」夜の新宿に繰り出し、セレブ気分で大いに盛り上がったものだ。

「高幡寿司」と大きく書いてある軽自動車ではあったが。
2007年08月23日

多摩動物園のアルバイト 〜大学の頃 episode6〜(回想録)

実家からの仕送りが少なく、生活が思いっきり苦しかったのでアルバイト先を探した。

ところが住んでいた日野市周辺にはいいアルバイトがなかった。
知り合いが時給350円のバイトでこき使われているという噂を聞き、それよりはマシだということで、泣く泣く時給500円のアルバイトを始めた。

バイト先は田倉荘から徒歩10分のところにある、かの有名な多摩動物公園だ。
動物園のバイトというといかにも楽しそうに聞こえるが、最初はただの皿洗いだった。
動物園だからと言って、皿洗いに動物が絡むわけではなかった。

しばらく我慢して働いていると、ぬいぐるみ売り場に移動することができた。
今度は動物絡みだ。
実物ではなかったが少しばかりは動物園のバイトらしくなった。

ところが、ぬいぐるみ売りは晴れた日は炎天下で8時間も立ち続けなければならない。
正直、時給500円では割に合わなかった。

動物園でアルバイトしてるんだ・・・
ワー、いいね!
私、動物好きなの!

と合コンネタには良かったが、単にそれだけの価値しかなかった。
2007年08月21日

弁護士を断念 〜大学の頃 episode5〜(回想録)

弁護士になろうと敢えて上京し中央大学を選んだわけだが、考えが甘すぎた。

というのも、法律の授業は想像以上に面白くないものだったからだ。
高校生の頃、初めて日本国憲法の前文を読んで感じたあの感動と高揚感はどこに行ってしまったのだろうか?

まず、法律の条文が日本語のくせに、理解できないほど難解すぎた。
そして判例(裁判所が示した法律的判断)は法律よりもさらに輪をかけて難かしかった。
法学とはそれらを解釈したり応用したりするものであったが、私にとっては全く興味の持てない、ただ難解なだけの学問と映った。

昔から社会科が嫌いだった私には、やはり法律の勉強は向いていなかった。
ましてや勉強があまり好きではなかったから、弁護士になるために一日10時間の勉強を7年も続けるなんてつらいことは、とても私にはできそうになかった。

というわけで、私は大学入学後1ヶ月も経たないうちに司法試験の勉強を断念した。
冤罪事件を救うために弁護士になるという崇高な理想を掲げて上京した私であったが、大学で勉強する目的自体を見失ってしまった。

そして私の大学生活は、一転して勉学の道から堕落の道へと転がり落ち始めた。
これが結果的には、起業そして現在の姿に結びつくわけだが。
2007年08月09日

挫折への道 〜大学の頃 episode4〜(回想録)

弁護士になるという崇高な理想を掲げて中央大学に入学したので、早速弁護士になるための方法を検討した。

弁護士になるためには司法試験に受からなければならない。
司法試験というと、当時も今も国家試験の中で最難関である。

聞いたところによると、真法会や郁法会などの団体に所属すると合格率が高くなるらしかった。
一人で黙々と勉強するよりも、法律家を目指す優秀な学生同士が集って勉強するほうがいいというのだ。

だが、司法試験の勉強をするためのこれらの団体に入会すること自体が難関だった。
司法試験の勉強をかなりやってからでないと、司法試験受験の切符さえももらえないというわけだ。

また、司法試験に合格するためには、一日10時間の勉強を7年間は続けなければならないという。
もちろん、大学在学中に受かることは稀で、大多数の人が大学卒業後も数年間勉強を続けた上でやっと合格する。
中には、30歳を超えてやっと合格する人もいるし、10年以上勉強をしたあげく合格せずに断念する人もいると聞いて、正直ビビってしまった。

なぜなら単純な話、私は勉強が好きではなかったからだ。
2007年08月02日

3畳部屋の青春 〜大学の頃 episode3〜(回想録)

大学生になって初めて借りた部屋は、風呂トイレなしの3畳部屋だった。
共同トイレは部屋の外にあるが、周辺に銭湯がないので共同風呂が敷地内についていた。
といっても、小さな風呂で一人一人順番に入るというものだったが。
家賃は風呂代込みで月19,000円。

当時、3人兄弟が全員大学生だったので、私に回ってくる仕送りはわずか4万円だった。
家賃を払ってしまえば残りは21,000円しかない。
だから必要最小限のもの以外は何も買えなかった。
家電製品で買えたのは三辺50cmくらいの小型冷蔵庫だけ。

この田倉荘には、結構よく似た境遇の貧乏学生が多かった。
親しくなった友達の中でテレビを持っているのは松山君だけだった。
14インチの白黒テレビだったが。

フィーリングカップル5vs5などの人気番組があるときは、下宿のみんなが松山君の3畳部屋に集って仲良く白黒テレビを見た。
ボロボロの下宿であったが家賃が安かったので、田倉荘には全国からよりすぐりの貧乏学生が集まり、奇妙な連帯感を醸し出していた。
2007年07月27日

まるで過疎地帯 〜大学の頃 episode2〜(回想録)

まず驚いたのは、田倉荘のオヤジが会話の語尾に「だっぺ」をつけることだった。
東京でもこのあたりの言葉は、標準語とは少し違っていた。

生活もかなり不便だった。

今は多摩モノレールが開通し、周辺もどんどん開発されているようだが当時はひどかった。
まず、食料品を買える店が近くになかった。
歩いて2分くらいのところに店があったが、1年のうち半分は休みで、さらに夕方5時になると閉まってしまう。

二番目に近いのが大学生協だったが、生鮮食料品が売っていない。
三番目に近いのは徒歩15分のところのセブンイレブン。
だが当時のセブンイレブンには生鮮食料品は売っていなかった。

というわけで、まともな食料品を買うには徒歩30分以上かかる高幡不動まで行くしかなかった。
電車で行くにしても、一番近い多摩動物公園駅まで徒歩10分歩き、それから電車に乗って高幡不動まで行かなければならなかった。
我々は、しかたなく1週間に一度、高幡不動の京王ストアまで連れ立って買出しにでかけた。

また、今では伝説になっているらしいが、当時下宿近くの山林には
 「きけん はいるな」
 「まむしもでるよ」
という看板が本当に立っていて、学生をビビらせていた。

それから、東京とはいえ山の方なので、冬は雪が積もると春まで消えなかった。
夜になると、もやがあたり一面を覆うことも多かった。
さらに、近くの多摩動物公園から獣たちの遠吠えがこだましていた。

一言でいうと、まるで過疎地帯だった。
2007年07月23日

大学はさらにド田舎だった 〜大学の頃 episode1〜(回想録)

田舎から上京して夢に見た都会生活・・・
洗練された都会で学生生活をエンジョイ・・・

といきたいところだが、そううまくはいかなかった。

中央大学多摩校舎は完成して2年目。
キャンパスはとても広く、建物も真っ白でまばゆいばかり。
ただ、なんとしたことか出身地の三重県亀山市よりもはるかにド田舎にあった。

住所は東京都八王子市だが、とても市と言えるような場所ではなかった。
多摩動物公園の近くの山林を開拓した、本当に何もない山の中に、秘密基地のような大学校舎が存在していた。

私は土地勘がなく、あたりの事情が全くわからなかったので、とにかく一番大学から近いところを下宿先として選んだ。

学校の門から徒歩5分のところの田倉荘だ。
田倉荘は日野市程久保6丁目にあり、周辺には文明を感じさせるものは何もなかった。
まさに自分の田舎よりもド田舎だった。

しかし自分は弁護士を目指して司法試験の勉強をするんだから、大学が近いほうがいいだろう。
そう思って下宿先を決めたのだが、その田倉荘には行く手をはばむ魔物がすんでいた。
2007年07月17日

いざ東京へ 〜高校の頃 episode6〜(回想録)

受験勉強をしていたある日、私の目にある悲惨な冤罪事件が目にとまった。
冤罪とは、犯していない罪を着せられることで、無実であるのに犯罪者として扱われてしまうことをいう。

私の目に留まったのは加藤老事件だった。
加藤新一(当時24歳)は知人の供述により犯人とされ服役、62年もの年月を犯罪者として扱われて過ごしたが、十数年に渡る再審請求の上で無罪を勝ち取った。

参考:こんなにある20世紀の冤罪事件

全く身に覚えのない事件で犯人にされ、一生を台無しにしてしまう。
こんなことが許されていいのだろうのか。
冤罪は本人の人生も奪うが、家族や親族さえも犯罪者の親戚として扱われ、村八分など悲惨な目にあってしまう。

私はこの事件を知ったことで、弁護士を目指そうと考えた。
いかなる場合においても、人権は尊重されるべきだ。
ましてや、人の人生を破滅させてしまう冤罪はあってはならない。
弁護士になって悲惨な冤罪事件をなくそう。

そう決意し、私は進路を法学部に決めた。

しかし、法学部の受験はやはり社会科が得意でないと不利だった。
ほとんどの私立大学法学部は社会が必須科目だったが、それでも国語・英語・数学で受験できる大学がいくつかあったので、それを3校選んだ。
関西が好きだったので本当は関西の大学に行きたかったのだが、私立の第一志望は司法試験合格者が多い中央大学法学部にした。
東京だがしかたがない。

国立は7教科必須で社会科から逃れようがなかったので、元の希望通り関西の大学を選んだ。

試験が始まった。
国立大学入試は、ちょうど私の受験の年から共通一次試験が導入されていた。
誰も経験がない共通一次だったが、なんとか乗り切った。
だが、日本史の成績が悪すぎた。
46点。
偏差値も最悪だった。

これが志望校の選択肢を決定的に狭めてしまった。
関西地区で受かりそうな国立大学法学部がなくなってしまったのだ。
やむなく私は関西の某国立大学の経済学部を受験した。

結果、運良く中央大学法学部と関西の私立大学法学部、それと関西の国立大学経済学部に合格できた。

経済的に言えば選択肢は国立大学しかなかった。
だが、どうしても法学部に行きたかった。
弁護士になって悲惨な冤罪事件をなくしたい、当時はそう強く思って、両親にわがままを言って中央大学に進学することになった。

そして昭和54年(1979年)4月、私は大いなる希望をもって上京し、大学生活がスタートした。
2007年07月10日

大学受験 〜高校の頃 episode5〜(回想録)

運動部にも入らず、私服通学の自由な校風をエンジョイしていた私にも、大学進学の時期がやってきた。

当初は第一志望は関西の国立、滑り止めに関西の私立と決めていた。
関西地方の端くれに位置する三重県には名古屋と大阪の両方の電波が届く。
お笑いが好きだった私は大阪のテレビ番組にチャンネルを合わせて、よく吉本新喜劇や漫才などを見ていた。
ラジオは笑福亭鶴光の「オールナイトニッポン」と笑福亭鶴瓶の「ぬかるみの世界」のファンで、とにかく関西のお笑いが大好きだった。
とにかくそういうノリで大阪の大学を目指していた。

私は数学・物理・化学が得意で、どうみても理系だったのだが、色覚的事情があって文系にせざるを得なかった。
ところが私は丸暗記が不得意。
なかでも特に暗記科目である日本史・世界史の成績が悪かった。
国立受験は7教科だったので国語・数学・英語・物理・化学・公民・日本史を選んだのだが、私立受験は文系志望にも関わらず国語・英語・数学で受験できる大学を選んだ。

浪人は許されなかった。
当時兄は二人とも大学生で、私が大学に入ると子供3人が大学生になる。
とても浪人できる経済状態ではなく、現役合格が必須だった。

そして受験勉強をしていたある日、とある新聞記事が私の目にとまり、これがきっかけで私の進路は大きく変わることになる。
2007年07月03日

自由な高校生活 〜高校の頃 episode4〜(回想録)

◇クラシックギター部

クラシックギター部と言うと、とてもりっぱな部活動のように聞こえるかもしれない。
しかし何のことはない。
クラシックとは名ばかりで、音楽室にあるクラシックギター片手に、みんなでフォークソングを歌って遊んでいた。

◇アマチュア無線技士

高1の時、同級生の竹田君が「アマチュア無線の免許をいっしょに取ろう」と言うので付き合うことにした。
無線のことは何も知らなかったのだが、名古屋までの1時間強の車中で竹田君に要点だけを教えてもらって受験した。
そうしたらなんと合格した。
アマチュア無線技士電話級、りっぱな国家資格だ。

しかし合格後現在まで、一度もアマチュア無線というものに触ったことがない・・・


◇私服通学

津高校には制服がなかった。
自由な校風は、県内でも群を抜いていたと思う。
さらに私は運動部に入っていなかったので、放課後はさまざまな誘惑が待っていた。
私服なので束縛するものは一切なかった。

見つかれば退学になりかねないようなことを、多くの生徒が当然のようにやっていた。
それでも要領がよかったのか運がよかったのか、お咎めを受けることもなく、私は自由な高校生活を謳歌した。
2007年06月27日

自動二輪免許13回連続不合格 〜高校の頃 episode3〜(回想録)

自宅から駅まで7キロもあったので高校になっても自転車通学をしていたのだが、免許を取ればバイク通学が許されていた。
だから同様な境遇の人たちは、16歳になるとすぐに原付(50cc)の免許を取り、原付バイク通学に切り替えるのが常識だった。

だが私は違う道を選んだ。
ゲンチャリなんてかったるくて乗ってられない・・・
高2の夏休みまで待って、自動二輪免許を一発試験場に取りに行くことにした。

ド田舎なので自宅の周囲は柵のない運転練習場みたいなものだった。
だから自動二輪の運転技術には自信があった。
高いお金を払って教習所に行かなくても免許は取れる、と考えて三重県にひとつしかない運転免許試験場の一発試験に挑んだのだ。

高2夏休みが始まった。
早速、中型自動二輪(400cc)の一発実技試験を受験した。
1回目は・・・落ちた。
2回目も・・・落ちた。

運転技術には自信があったので受からないわけがない。
だが、3回目も、4回目も落ちた。
なぜ受からないのかさっぱりわからない。
5回目も、6回目もダメ。

そしてとうとう夏休み最後の一発試験。
結果は・・・また落ちた。
不合格回数はすでに13回を数えていた。

さすがに平日高校をサボって免許を取るわけにもいかないので、自動二輪免許取得は断念せざるを得なくなった。

自動二輪免許を取ると周囲に豪語した関係上、今さら原付免許を取るわけにもいかず、高校卒業まで片道7キロ、アップダウンがあるつらい自転車通学を続けるハメになってしまった。
2007年06月21日

地歴部とは 〜高校の頃 episode2〜(回想録)

地歴部とは何か?

究極のオタクといわれてもしかたがない。
地理と歴史のクラブ活動である。

何をするかというと、
 ・古墳などの遺跡めぐり
 ・遺跡発掘
 ・歴史的建造物めぐり などだ。

とても私には似つかわしくない活動を、高校時代はやっていた。

出身地の三重県とその周辺には、実にたくさんの遺跡・古墳や歴史的建造物が散在している。
例えば、実家のすぐ近くには日本武尊(やまとたけるのみこと)の御陵がある。
ヤマトタケルはこの地で
「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣  山ごもれる やまとし うるわし」
と詠み、力尽きたと日本最古の歴史書である古事記に記されている。

そのほかにも、実家の周辺には数多くの古墳があった。
古墳は永い時間を経て、林となり、畑となり、普段はそうとは気づかない。
だが、詳細な地図や記録を紐解いてみると、確かにこんもりとしていて、あたりを探すと鏃(やじり)や土器の破片などがよく見つかった。

つらかったのは、遺跡発掘調査の手伝いだ。
地歴部の活動費を捻出するため、無理矢理やらされた。
県の教育委員会からアルバイトの仕事をもらうのだが、遺跡を慎重に慎重に手で発掘していく作業で、長時間、中腰になりながらの作業なので、腰にきた。
また単調な作業で、全くおもしろくなかった。

そんな中でも、楽しかったのは遺跡めぐりや歴史的建造物めぐりだ。
明日香村など、奈良の著名遺跡や周辺の遺跡を訪ねたりして、悠久の時を肌で感じ、太古の日本に想いを馳せたものだ。
2007年06月15日

津高校入学 〜高校の頃 episode1〜(回想録)

高田中学から三重県立津高等学校(通称:津高)に進学した。
私立中学→公立高校 という進学は妙な印象があると思うが、当時の三重県は教育環境が整っておらず、このルートがお決まりのコースだった。

津高は県内の高校では珍しく制服がなく、自由な校風だった。
学校が生徒を信用してくれていたわけだが、私服通学は私にさまざまな誘惑を突きつけることになる。

津高は近鉄津新町駅から徒歩10分のところにあった。
中学のときよりもさらに遠距離通学になり、それまで乗っていた8時10分発亀山駅の汽車では間に合わなくなり、1時間早い朝7時10分発の汽車で通学することになった。

この通学は中学の頃よりさらにきつくなった。
冬は真っ暗なうちから自転車に乗らなければならない。
今は地球温暖化で雪も滅多に降らないが、当時はよく雪が降った。
真っ暗な雪道を、ボタン雪を全身に浴びながら自転車で7キロを走るなど、都会暮らしの今では到底考えられない。

通学に時間がかかるようになった、大学受験が控えている、などと理由をつけて高校からは運動部には入らなかった。
代わりに、クラシックギター部と地歴部に入部し、軟弱な高校時代がスタートした。
2007年06月11日

仏教系 〜中学の頃 episode4〜(回想録)

特に信心深いわけではないのだが、入学した高田中学は仏教系の学校だった。

高田中学高田学苑に属しており、真宗高田派本山専修寺(しんしゅうたかだはほんざんせんじゅじ、通称:高田本山)による経営だ。
専修寺の宗祖は浄土真宗の開祖、親鸞聖人(しんらんしょうにん)である。

仏教系の学校なので、国語・英語・数学などと同列に「仏教」という科目があった。
仏教といっても、お経を覚えるわけではなく、仏陀の生誕や親鸞聖人の物語を旧字体の本を使って勉強するのだ。

お陰で旧字体の漢字が得意になった。
旧字体が得意でも普段は全くメリットはないのだが、仕事などで香港や台湾に行った時だけは役に立つ。
香港、台湾では今でも旧字体漢字を使っているからだ。
2007年06月07日

蒸気機関車で通学 〜中学の頃 episode3〜(回想録)

高田中学のある一身田駅までは亀山駅から紀勢本線に乗って約15分。
紀勢線は単線で、今も電化されていない。

中学の頃はその紀勢線に一日一本、蒸気機関車が走っていた。
たまに学校が早く終わり、野球部の練習もないときは、14時の蒸気機関車に乗ることができた。
蒸気機関車はC58型。
シゴハチと呼ばれていた。
今もあの石炭のにおいとシゴハチの雄姿を思い出す。

亀山駅と下庄駅の間には短いトンネルがある。
油断して窓を開けたままトンネルに入ると、蒸気機関車の煤煙で客車内が大変なことになったものだ。

シゴハチは残念ながら中学2年の頃に姿を消した。
今思えば、蒸気機関車で通学できたなんて夢のような話だ。
2007年05月30日

過酷な自転車通学 〜中学の頃 episode2〜(回想録)

通学は過酷だった。
家から亀山駅までは、アップダウンのある7キロを自転車をこがなければならない。
亀山駅からの汽車は1時間に1本しかなく、8時10分の汽車に乗らないと間に合わない。
雨の日も風の日も雪の日も、自転車で通った。
アップダウンがある7キロを毎日全速力で走るので、たびたび汽車の中でめまいを起こして気絶した。

自転車で脇目もふらずに走りまくるので、毎年のように交通事故に遭った。
中でもひどかったのは、町中で路上駐車している車の横を通り抜けようとした時だ。
その瞬間、車のドアが開いたのだ。

激突、転倒した。
自転車はぐにゃぐにゃに曲がってしまった。
でも幸い軽い怪我で済んだ。

度重なる交通事故にも懲りずに、この自転車通学は高校卒業まで6年間続いた。
のちには自転車でパイクを追い越せるほど筋力がついた。
こりゃ競輪選手になれるな、と本気で思っていた。
2007年05月29日

野球部入部 〜中学の頃 episode1〜(回想録)

意外や意外、高田中学には合格できた。

中学といえば、部活動!と考えた。
で、野球部に入部した。
特に野球が得意だったわけではないが、私立の学校は野球が弱そうで、練習が楽だと思って一念発起、入部してみた。

しかし現実は甘くなかった。
野球部には鬼の先輩がいたのだ。

当時私は腕立て伏せもできないくらい筋力がなかったのだが、なんとその鬼は私に無理やり腕立てを30回もやらせた。
腕立て伏せができないというのに30回やらされるというシゴキがどんなにヒドイか、想像できますか!

毎日筋肉痛というか、腕が動かなくなった。

また私は逆上がりができなかったのだが、そんな私に鬼の先輩は「鉄棒3分ぶら下がり」を命じた。
3分間ぶらさがって持ちこたえないと、ケツバット(バットで尻を強打されること)が飛んでくるので、死ぬ思いで3分間耐えた。

鬼の先輩はさまざまな方法で、か弱い私を徹底的にイジメ抜き、鍛えてくれた。
その鬼のおかげで、私はたくましい少年に成長していった。
2007年05月25日

中学受験 〜子供の頃 episode8〜(回想録)

小学6年の冬のことだ。
両親から私立の高田中学校を受験しないかと言われた。

兄が2人とも地元の市立中学に進学しており、また家が貧乏だったので、中学校は授業料のかからない市立に行くものとそれまでは思っていた。
地元の市立中学に通うなら自転車で10分もかからないが、高田中学校は三重県の県庁所在地である津市にあるので、駅まで河超え丘超え自転車で7キロ、さらに1時間に1本しかない汽車に15分乗って通うことになる。
ド田舎育ちの私からすれば高田中学は憧れでもあり、それまですごしてきた狭い田舎社会からの脱皮でもあった。

両親の強い勧めと期待もあり、にわかに使命感を覚えて、受験勉強を始めた。
だが受験勉強とはいっても、自宅周辺には塾などひとつもなかった。
全国私立中学受験問題集を一冊買ってもらって延々と解き続ける、これが唯一の勉強方法だった。

初めて目にする灘中学とかラサールなどの有名校の試験問題は、問題の意味さえもわからないほど難解なものばかりだった。
が、他に勉強方法もわからないので、友達との遊びをきっぱりと断って約2ヶ月間受験勉強に集中した。

受験勉強の期間が短いこともあって、受験の日が近づいても相変わらず受験問題集はほとんど解けなかった。
それまで田舎の小さい小学校ではトップの成績だったが、井の中の蛙だった私は、世間の学力レベルがはるかに高いところにあることを初めて思い知った。

とにかくやるだけのことはやったが、全く合格する自信はなかった。
2007年05月22日

平泳ぎ500メートル達成 〜子供の頃 episode7〜(回想録)

三重県といえば、伊勢海老や鮑などの海産物のイメージがあり、海の近くという印象らしいが、生まれた亀山市には海はなかった。

我が家は海岸から20キロほど離れており、小学校5年のときに学校にプールができるまではほとんど水泳をする機会がなく、泳げなかった。
父が夫婦岩で有名な二見ヶ浦出身だったので、たまにいく海水浴で平泳ぎを教えてくれたが、海は波があり、危険すぎて泳ぎの練習にはならなかった。

というわけで、小学校にプールができたときはうれしくてうれしくて、夏休みには毎日プールに通った。
当時はエアコンというものは普通の家にはなかったので、夏はとにかく暑く、プールにでも行かないとたまらいという理由もあったが、とにかく毎日プールに通ってなんとか平泳ぎができるようになった。

小学5年の夏休みの最後の日、8月31日のことだ。
今日で楽しいプールも終わり。
夏休み中、一日も欠かさずプールに通った成果を示そうと、平泳ぎ500メートルに挑戦をした。
もちろん休憩なしの500メートルだ。
1時間以上かかっただろうか、プールができるまでは泳げなかった私は、夏の終わりには平泳ぎで500メートルを泳ぎきることができるようになっていた。

今ではこんなことはめずらしくもなんともないが、当時私の小学校では画期的な出来事だった。
プールができたばかりの田舎の小学校では、500メートル泳げる生徒は他にはいなかったのだ。
2007年05月17日

とても貧乏でした 〜子供の頃 episode6〜(回想録)

1971年に今の実家がある場所に引っ越した。
それまでは林の中にある小さな長屋の家に暮らしていた。

私が少年の頃の我が家はとても貧しく、ぎりぎりの生活をしていた。
子供心に「ウチは貧乏なんだ」と認識して暮らしていたと思う。
小学生の頃は、近所の友達がアイスクリームやチョコレートなどを買い食いしていても、私だけは指をくわえて見ていた。
小遣いがなくて買えなかったのだ。

チョコレートなんぞは高嶺の花だった。
あまりにもチョコレートに対する憧れが強くて、お菓子の家の夢をよく見たものだ。
いつかはチョコレートを腹いっぱい食べてみたいと本気で思っていた。
今でもたまに気が狂ったようにチョコを食べてしまうのは、この貧乏な幼児体験のせいだと思う。

また、両親が郵便局に勤めていたこともあって、無駄遣いせず貯金をするようにしつけられた。
小学校1年生の時には、お年玉を合計で1700円、2年の時には1900円もらったのを覚えているが、1円も使わずに全部郵便局の定額貯金に預けて、それが満期になるまで10年間預けた。
今から思えばあまりにも小さい金額で、貯蓄としての成果はほとんどなかったが、無駄遣いをせずに我慢する習慣が身についたと思う。

サラリーマン時代にこつこつと貯金をして、独立資金1000万円を貯めることができたのも、両親のこうした教育のおかげだと思っている。
2007年05月11日

凄まじい田舎育ち 〜子供の頃 episode5〜(回想録)

子供の頃住んでいた実家の周りはすさまじい田舎だった。
三重県亀山市が田舎だったというより、自分の家の周辺がとても辺鄙な場所だった。

まず、公共交通機関がなかった。
バスが生まれた頃は走っていたが、利用者が少なくてその後廃止されたらしい。
バスが開通するという話はあると思うが、廃止されるというのはかなりな田舎の証明ではないだろうか。
そんな山奥というわけでもなかったのだが、公共交通機関がなかったので小さい頃の行動範囲はごく限られた狭い世界だけだった。
いつまでも世間知らずの田舎者が抜けきらないのは、そんな環境で育った影響だと思う。

というわけで、とにかく自然の中で育った。
春はつくし、わらび、ふきなどの山菜がいたるところで採れた。
つくしやわらびはいまでも大好物である。

夏は川で水浴びをしたり、魚釣りやザリガニ釣りをした。
近所の森を探検したり、森の中に秘密基地を作って遊んだりもした。
また母親の実家が農家だったので初夏には田植えを、秋には稲刈りも手伝った。

そのほか、アケビを取って食べたり、秋には栗がいくらでも採れた。
冬は今とは違って雪が積もることがあったので、雪の時は当然雪合戦、雪だるま、かまくら作り。

正月は、凧揚げ、こま回しに没頭した。
とにかくそんな原始的な遊びしか、生まれた田舎には存在していなかった。
2007年04月25日

いつも2番手の小学生 〜子供の頃 episode4〜(回想録)

幼稚園を卒業して、亀山市立川崎小学校に入学した。

ド田舎なので、クラスは1学年1クラスしかなかった。
1年の2学期には学級委員になった。
本当は1学期からなりたかったのだが、クラスの投票で正人君に負けたのだ。
それから6年になって2クラスに分かれるまで、毎年1学期の学級委員の投票で正人君に負け続けた。
正人君には激しいライバル心を燃やしていたのだが、一度も勝つことはできなかった。

近所には同級生の拓也君がいた。
昭和46年に拓也君の家の隣に父が土地を買い、念願の一軒家を立てたので、拓也君とは隣同士になった。
いつも行動を共にし、無二の親友となった。
ちなみにこの一軒家は今も私の実家として残っている。

拓也君のお父さんは教師だった。
非常に教育熱心な家庭で、結構世話になった。
5年くらいからだったと思うが、拓也君のお父さんの指導により、拓也君と共に毎朝ラジオ体操をしてから800メートルを走ることになった。
毎日とてもつらかった記憶があるが、毎日のトレーニングで長距離走が得意になった。
今健康でいられるのは、拓也君のお父さんのお陰でもあると思う。

5年か6年の時の学芸会では、劇の脚本を書き、演出もやった。
先生にも結構受けていたと記憶している。
作家の才能があるのでは、と思ったものだ。

6年の時は児童会長になった。この時も、1期目は選挙で正人君に負けて、2期目の当選だった。
小学校時代は常に2番手だった。
正人君には人気で負けていた。
人気がなかなか取れないところが、今も自分の弱点だと自覚している。
2007年04月24日

交通事故 〜子供の頃 episode3〜(回想録)

6歳の時、交通事故で1ヶ月入院した。

兄の後を追いかけて通りに走り出て、バイクにはねられたのだ。
そのバイクはそのまま走り去ってしまった。
ひき逃げである。

救急車で病院に運ばれた。
頭骸骨にヒビが入るケガを負った。
その時、私はなぜだか「意識不明」を演じてしまった。

今思えばとんでもないことだが、家族や病院の人がものすごく心配するので、ついつい調子に乗って意識がないように演じたのだ。
でも数時間でその演技も終わった。
なぜなら、おしっこがしたくなったからだ。
アホらし・・・

それでも、意識不明を演じたことによりこの交通事故は重大事故として扱われ、「彰ちゃん(6つ)意識不明の重体」と地元新聞に載った。
早くもこの時から、目立つことに快感を覚えるようになった。

入院している時、アルファベットや簡単な英単語を学ぶ本をもらった。
ほかにやることもなかったので、その本の内容を夢中になって覚えた。
当時の亀山では、幼稚園児が英語の勉強をすることはあり得ない話だったので、地元で「英語が話せる幼稚園児がいる」と有名になった。
アルファベットや英単語を少し覚えただけで、英語が話せたわけでは決してなかったが、田舎というのはそんなものだ。
2007年04月06日

男ばっかり3人兄弟 〜子供の頃 episode2〜(回想録)

3人兄弟、男ばっかりの三男として生まれた。
長男とは5つ違い、次男とは2つ違いで両親が共働きだったので、子供の頃は兄達にこっぴどくやられた。

小さい頃は2歳、5歳違いといってもかなりの体格差だ。
だからけんかになったら、到底兄達にはかなわなかった。
親が働いている間にけんかになると、全く勝ち目はなかった。
押さえつけられたりした時は全く抵抗ができなかった。
幼い自分の心理としては、何度か「殺される!」と感じた。
当時は、大きくなったらきっと仕返しをしてやる!
と本気で考えていたものだ。

両親は郵便局員だったので、毎日帰宅が早かった。
5時半にはもう家に帰ってきていたように思う。
だから晩ごはんの食卓には、常に家族全員がそろっていた。
父も母も温厚で、今を思えばすばらしい環境で育てられたと思う。

だが小さい頃は、昼間両親がいなくて淋しい思いをしていた。
ある時そんな思いが高じて「共働きをやめて欲しい」と両親に発言してしまった。
両親は貧しい中から必死で共働きをして家族を支えていたのに、なんてひどい発言をしてしまったのかと今も悔やんでいる。
2007年04月03日

生まれたときは 〜子供の頃 episode1〜(回想録)

私の生まれは1960年(昭和35年)9月28日。
日本が高度成長まっしぐらだった時代に生を受けた。

今も実家がある三重県亀山市で生まれて、高校時代までずっと亀山に住んでいた。
亀山といえば、昔はローソクくらいしか説明する題材がなかったが、今はシャープの液晶工場がドドンとやってきて、世界の亀山ブランドとして随分有名になった。

この企業誘致は当時の知事であった北川正恭氏が主導して、三重県が90億円、亀山市が45億円も費やして実現したことは有名な話だ。

生まれたときは借家住まいだった。
その時すでに祖母は他界しており、物心つかないうちに祖父も他界した。
父は長男だったので、祖父と私は3年くらい同居していたようだが、何も記憶がない。
私は父と母、それに兄二人とで幼少時代を過ごした。

父と母は郵便局員だった。
共働きだった。
郵便局員といっても当時は国家公務員だ。
父にはことあるごとに「お前が悪いことをしたらクビになるから絶対悪いことはするな」と教育されて育った。
貧しい中で、一生懸命共働きで家族を養うその姿を痛いほど見ていたので、絶対に悪いことはしてはいけないと、自分に言い聞かせていたことを思い出す。
2007年02月05日

生い立ち〜大学卒業まで

ここでは、私北中が生まれた土地、少年時代、大学時代のエピソードを
シリーズ形式で語っていきたいと思っています。
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