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ここでは、就職してから会社設立までの経緯を語ります。

一番古い記事が一番下にあります。

就職するまでの経緯は 「回想録」 をご覧ください。

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1980年代後半から、プリンター業界には大きな変化が訪れていた。
 
それはインパクトプリンターからノンインパクトプリンターへの移行である。
 
インクリボンを使うワイヤドットインパクトプリンターはとにかく音がうるさかった。
ジージー、ジージーと音を立てて、オフィスではとても耳ざわりなものだった。
また、印字が遅く、きれいでもなかった。
 
音がうるさいのは、熱転写式プリンターが一旦解決させたかに見えたが、熱転写式は印字が遅すぎてオフィスでは使い物にならなかった。
 
そこで頭角を現してきたのがトナーカートリッジを使う、レーザープリンターである。
(別名、LBP、レーザービームプリンター、ノンインパクトプリンター、NIP、電子写真式とも呼ぶ)
 
レーザープリンターは、静かで・印字が速く・きれいだ。
ところが当初はプリンター本体の価格が高すぎで、普及しなかった。
しかし、キャノンがLBP-B406シリーズを20万円台で発売してから様子が変わった。
企業が導入するのに手ごろな価格になったのである。
そして、LBP-B406シリーズの登場を皮切りにして、一気にレーザープリンターの普及が加速しだした。
 
インクリボン全盛時代、インクリボンがわが世の春を謳歌する中、トナーには大きなビジネスチャンスがあると私は確信した。
設立当初から一応ではあるが、コンピュータで販売・仕入・在庫の管理を始めた。
 
導入したのは、PCA社の商魂・商管というパッケージソフトだった。
パソコンはNEC PC9801を一台買ってワイヤドットインパクトプリンターを一台つないだ。
それでも当時の零細企業としてはかなり思い切ったシステム投資だったと思う。
 
当初からパソコンを導入して良かったことは、
○多品種のインクリボンの在庫管理がかなり正確にできたこと
○お客様からの在庫問い合わせに対して、コンピュータ検索で倉庫の実在庫が即答できたこと。
 (但しきちんと伝票入力していない場合は在庫が合わなかったが)
○お客様への納品書・請求書発行が省力化できたこと
○仕入先への発注管理、支払管理が正確にできたこと
○結果「仕入先には絶対に遅れず支払いを正確に行う」ことが実現でき、企業としての信用を得られたこと
などだ。
 
しかし反面、問題点もあった。
それは見積管理がパッケージソフトの機能に入っていなかったことだ。
営業方針としてお客様の要望には何でも応えていたので、見積書の枚数が日に日に増えていった。
それと同時に仕入先からの見積書もどんどん増えていった。
取引が多い得意先になると、発行した見積書が数百枚になった。
仕入先からの見積書は多いところで千枚を超えた。
これらが全部手書き発行で、かつ紙ベースでファイリングするしかなかった。
 
そうするとどんなことが起こるか。
 
元来取扱商品の単価があまり高くないので、注文が来てもそんなに利益があるものではない。
またプリンター消耗品の販売なので、見積もってから半年経ってやっとインクリボンが薄くなって注文が来たりする。
そうなると、お客様から注文が来たときに「さていくらで見積もったのかな?」と見積書のファイルを延々と探すことになる。
1時間以上探してやっと販売単価がわかったりする。
ところがこれだけでは済まない。
次はこの商品の仕入先を思い出さなければならない。
またさらに1時間以上探してやっと仕入先と仕入単価がわかり、やっと注文ができる。
だが、それだけ労力をかけても利益は数百円しかない・・・
 
こんなことを毎日のように繰り返していた。
こんなに手間がかかるのではやってられない。
業務に忙殺されて早晩行き詰るのは目に見えていた。
私は見積管理のコンピュータ化の必要性を痛切に感じた。
 
このことがその後の大きなシステム投資と、それに続く3つ目のEであるE-business(電子商取引の推進)へとつながっていく。
設立の1990年当時は、日本経済がバブル絶頂の時代だった。
 
株や土地は際限なく値上がりし続けていた。
また事務所を借りるのが非常に難しい時代だった。
空室がほとんどないし、空いていても賃料がべらぼうに高騰していた。
 
設立当初はコストは極限まで切り詰めなければならない。
私は、知り合いの実家(木造モルタル)の1階が空いているというのでそこを借りることにした。
場所は東京都台東区東上野、上野駅から徒歩15分浅草方面に歩いた、かっぱ橋道具街に近い場所だった。
 
借りた事務所は昔、小豆屋さんをやっていたらしくネズミが多くて困った。
在庫のインクリボンはよくネズミにかじられた。
あいつら何でも食うらしい。
 
会社が軌道に乗るまでは家に帰らないことも多かった。
会社で寝るときは床にダンボールを敷いて寝たのだが、口を開けて寝ていたらネズミが口の中に入ってきて飛び起きたこともあった。
 
その事務所は通り沿いの1階にあり、周辺に比べると低い場所にあった。
一度東京が豪雨に見舞われたときには、50センチくらい浸水の被害にあった。
その時は、なけなしの資金で在庫しているインクリボンが濡れて台無しにならないように、必死になって高いところに移動させた。
 
とにかく早く会社を軌道に乗せて、もっとまともな事務所に移転したいと思い、昼も夜もなく脇目もふらず働いた。
設立時、当社は株式会社オフィックスという名前だったが、最初はこの名前をとても気に入っていた。
 
OFFIX
OFFICEになにか(X)をもたらし、新しい挑戦をします・・・
当時オリエントリースがオリックスに変わり、伊那製陶がイナックスに変わったりして、○○ックスという社名がはやっていたこともあってオフィックスという名前に決めた。
 
offixとfが二つあったので、当時はハウンドドッグのff(フォルテシモ)を社歌だと称して、よく社員とカラオケでコブシを突き上げながら歌ったものだ。
 
さて設立間もないある日、ショッキングなことが起こった。
営業活動で東京駅付近を車で走っていたときのことだ。
前をみると「オフィックス」と書いてあるワゴン車が走っているではないか!
 
やってしまった!
調べてみると、虎ノ門にオフィックス株式会社という会社があるではないか。
あちらは松本文具という名前からオフィックスに社名変更したばかりだという。
 
これにはさすがに参った。
今ならインターネットで社名などは簡単に検索できるが、当時はこんな簡単なことが調べられなかった。
そのあとも、大森にもう一社別の「オフィックス」という文具を扱う会社が見つかった。
なんと東京に「オフィックス」が3社もあったのだ。
 
当社はインクリボン・トナーの販売会社だが、あとの2社は文具業界で、ほぼ同業だったので気にしないというわけにはいかなかった。
社名が同じだとやはりいろいろトラブルが起こった。
お客さんがまちがえて代金の振り込みをしてきたり、既存取引先と社名が同じだからという理由でお客さんから取引を断られたり、やはり同じ社名は都合が悪かった。
 
迷ったが、その後やはり社名を変更せざるを得なくなった。
大阪プラント販売での仕事に満足していた私は、しばらく独立のことは忘れていた。
 
ある日、大学時代の友達で証券会社に勤めている友達に会った。
その友達の周囲は外資系証券に転職した人などが多く、私の周辺とは別世界だった。
井の中の蛙状態だった私の目を覚ましてくれたのは彼だった。
 
彼は私に言った。
「そんなにインクリボンが売れるんだったら、独立したらどうだ。」
 
彼は仕事柄、事業のコンサルティングを得意としており、私の独立後の資金計画を綿密に計算してくれた。
結果を聞くと、なんと設立資金として2000万円が必要だという。
会社設立時にはインクリボンの在庫資金が必要で、かつお客様からの代金回収のサイトを考えると、どう見積もっても2000万円が必要とのことだった。
私は独立のために、6畳風呂無し共同トイレの家賃3万円のおんぼろアパートに住んだりしてこつこつと貯金してはいたが、残念ながら必要資金の半分の1000万円しか貯まっていなかった。
 
愕然とした。
独立資金が足りなければしかたがないか・・・
一旦は独立をあきらめかけたが、私のもとに突然に、かつ偶然に、天使が舞い降りた。
 
なんとその証券会社の友達が資金提供者(エンジェル)を紹介してくれるというのだ。
私の友達は企業部に属しており、様々な会社を上場に導く仕事をしていたのだが、その顧客の中から資金提供者として上場会社の社長を紹介してくれたのだ。
 
彼が紹介してくれたエンジェルは熱心に私の話を聞いてくれた。
私はインクリボンビジネスの魅力と、ユーザーが選択の余地がないことによって大きな不利益を蒙っていること、メーカーの謀略とその非合理性、またそれらインクリボンにまつわる根深い問題点を解決することがいかに社会的意味合いを持つかを全身全霊を込めて説明した。
またトナーカートリッジ市場が将来大きく拡大する可能性があることについても強く訴えた。
 
そして、ついにOKが出た。
エンジェルが1000万を出資してくれることになったのだ。
これで資本金2000万が準備できる。
就職してからはや8年が経過、私の年齢も三十に到達していたが『三十にして立つ』ことができた。
念願の独立開業が実現に向けて進みだした。
 
それから数十日後の1990年12月1日、スリーイーグループの前身である株式会社オフィックスは、東京都台東区東上野でその産声をあげた。
以前にも書いたが、インクリボンはプリンターによって指定のものしか使えない。
カートリッジの形が合わないとプリンターに装着できないのだ。
 
さらにメーカーは、プリンターを出すたびにカートリッジの形を変えてくる。
我々のようなサードパーティーが、非純正品(汎用品)をユーザーに提供し、ユーザーに救いの手を差し伸べるのだが、純正メーカーは新しいプリンターには新しいカートリッジでという作戦で徹底的に純正品を使わせようとする。
新しいインクリボンが登場したら、我々はすみやかに汎用品を出す。
するとメーカーは、また新しい形のインクリボンを作る。
いつまで経っても終わらぬいたちごっこだ。
インクリボンの種類は増え続け、ユーザーはさらに困惑していた。
 
膨大な数のプリンターに対し、膨大な数のインクリボンが存在していた。
同じ形のインクリボンでも、プリンターメーカー各社が別々の名前をつけたりして、ユーザーはどの汎用インクリボンを買えば経費節減ができるのか、複雑すぎて簡単にはわからない状況になっていた。
どのプリンターがどのインクリボンを使うかがわかりやすくならないと、結局ユーザーは面倒なのでついつい純正品を買ってしまう。
 
これではいけない。
 
そこで当時の私が開発したのが、インクリボン検索システムである。
膨大な量のプリンターとインクリボンの互換情報をデータベース化し、プリンター機種名を入力すればどのインクリボンを使うかがパソコンで検索できるようにしたのだ。
同時にその互換情報を本にして販売店に配布した。
大手文具メーカーがインクリボンの互換情報を「検索台帳」という名前で配布していたので記憶にある方もいる思うが、実はその互換情報は私が作っていた。
 
当時は、朝から晩までは営業活動をしていて時間が限られていたので、同僚が帰宅して夜になってから、ひとり黙々とデータベースの構築作業を続けた。
何日も家に帰らない日が続いた。
昼間は営業活動、夜はデータベース構築作業で、いつも睡眠不足。
毎日、頭は朦朧としていた。
だが、このインクリボン検索システムを早く完成させないとユーザーが高いインクリボンを買うことになってしまう。
このシステムがないと、純正メーカーがインクリボンで膨大な利益を上げ、ユーザーが一方的に損をする状況が変えられない・・・
 
何度も挫折しそうになりながら、何ヶ月もかけて、ついにそのインクリボン検索システムは完成した。
そして多くのユーザーが、プリンターメーカーの陰謀から救われたはずだ。
CSKに就職してちょうど3年が経過した25歳の時(1986年)に、サプライセンターのメンバー4人と一緒にCSKをスピンアウトした。
大阪プラントの販社として大阪プラント販売を設立したのだ。
インクリボンの専門商社の誕生だ。
 
新規立ち上げというのは、何でも面白いものである。
中央区東日本橋のごく小さい事務所で、事業立ち上げ時の湧き上がるような興奮を感じながら一生懸命仕事をした。
 
無我夢中で走った。
がむしゃらに働いた。
以前にも増して、パワー全開でインクリボンの販売店開拓をおこなった。
そしてどんどん業績が伸びていった。
 
お客さんが増えて、朝会社に行くと途端にお客さんからの電話の嵐。
机の上はお客さんからの伝言メモだらけになった。
生きている実感があった。
お客さんから頼られていることがうれしかった。
しかし、折り返し電話をすべてこなすには夕方までかかることも多かった。
それくらい問い合わせや引き合いが多かった。
そして、伝言メモがすべてきれいになくなってからやっと外出開始だ。
少ない外出時間で、1軒でも多くのお客さんを訪問しようと必死だった。
 
営業から帰るといつも夜になっていた。
そして夜になってから、私はある「壮大な計画」に毎晩取り組んでいた。
独立を決意したが、方法がわからないのでいろんな本を読みあさった。
そして当時お気に入りの邱永漢(きゅうえいかん)の本の中で、独立に関するアドバイスを見つけた。
 
・独立するなら節約して金をためろ
・独立するなら積立貯金をしろ
・独立するなら小さい会社に入って経営を学べ
 
私はこれらを実行することにした。
 
~独立するなら節約して金をためろ~
私はとにかく金のかかることは避け、ケチに徹した。
 
~独立するなら積立貯金をしろ~
独立したら銀行から借金をしなければならない。
こつこつ積立をした実績があれば銀行が信用してくれるらしい。
そこで、積立貯金を始めた。
独立してみたら現実はそんなに甘くはなかったが。
(独立当初お金を貸してくれる銀行は一社もなかった)
 
~小さい会社に入って経営を学べ~
邱永漢の本によると、大きな会社にいても業務のほんの一部しか経験できないから、独立する前に小さい会社に入って、会社のあらゆる業務を覚えなさいという。
独立すれば何から何までやらなければならないから、小さい会社のほうが勉強になるというのだ。
 
そして就職して2年半が経ったある日、「大川社長からやめてまえ、と言われるんだったら本当にやめてしまおう」とサプライセンターの全員でスピンアウトする話が持ち上がった。
当時インクリボンの仕入先だった大阪プラントの東京販社として、一緒に会社を始めようという話だった。
まさに邱永漢の言う「小さい会社に入って経営を学べ」が実践できるいい機会じゃないか・・・
 
私は、二つ返事でOKした。
 
そして、独立への第一歩がスタートした。
独立を決意したのは就職して2年ほど経った、24,5歳の頃だった。
 
三重県亀山市に男ばかり3人兄弟の末っ子として生まれ、一人上京した私は、社会人になったら家を持とうと思っていた。
手取り10万そこそこの収入だったが、家を買おうといろいろ見て回った。
 
住むなら一軒家と決めていた。
なぜなら、三重の田舎にはマンションなどはなく、みんな一軒家に住んでいたので、東京でも一軒家に住んで当然だと思っていたのだ。
 
東京の郊外を見て回って驚いた。
10坪の土地に建つマッチ箱のような家でも3千万円とかするではないか。
ローンを試算してまた驚いた。
給料の大半をつぎ込んでも、返済に35年もかかる!!
 
ローン返済で人生が終わるのはいやだと思った。
 
また、CSKは給料が安かった。
それでも出世して給料が上がればいいのだが、出世の見込みは全くなかった。
なぜなら、インクリボンを販売する仕事自体がCSKの故、大川功社長に気に入られてなかったからだ。
 
大川功社長は、晩年になって当時CSKの傘下にあったセガが大赤字になった時に、個人資産850億円を瀕死のセガに寄付したという伝説の超豪傑、超お金持ちの、超カリスマワンマン経営者だった。
大川功社長は毎月、社長点検と称して全部門の責任者を集めて業績のチェックを行っていたが、私が所属していたサプライセンターは業績が悪く、社長点検で私の上司は「そんな仕事やめてまえ。ソフトウェアをやれ、ソフトを。」と幹部全員の前で毎月のようにこきおろされて、サプライ販売をやめろと言われていた。
 
そんな部門だったので、いい人事評価がもらえるわけがなかった。
 
それにCSKには同期が600人もいて、最低評価部門に所属しているというハンデを背負って這い上がるには、あまりにも競争相手が多すぎた。
 
それまでも私はあえて安全な道を選ばず、リスクのある選択をしてきた。
CSKにいてもうだつが上がらないし、友達はどんどん巣立っていくし、いっそのこと自分も独立してやろうと考えるようになった。
□CSKの寮生活
 
地方出身で貧乏だった私は、会社の寮がありがたかった。
運良く入れたCSK武蔵境寮は、6畳一間を5,000円で貸してくれた。
学生時代は3畳トイレ無共同風呂を19,000円で1年、その後4畳半トイレ無共同風呂無を13,000円で卒業まで借りていたが、CSKの寮はそれより安く、共同風呂もついている。申し込めば賄いだってある。
安いながらも給料がもらえるようになって、家賃も安く、若干余裕ができた私は、400ccのバイクを購入しCSKのツーリングクラブに入会したりした。
 
□株長者がごろごろ
 
CSKは私が入社した前の年の1982年に東証二部に上場し、当時株価が日本一高かった。ソフトウェア産業初の上場としてその将来性がもてはやされていたのだ。
そんなわけで、CSK社内には株長者がごろごろしていた。
ある先輩は持ち株が100倍位に値上がりして1億円以上の価値になり、浮かれて毎日歌舞伎町で飲み歩いていた。
数十人を引き連れて歌舞伎町のクラブをはしごして、全部おごってくれるような豪快な上司もいた。
対照的に、持ち株会に入らなかった人は悲惨だった。
ツーリングクラブの先輩に、ハーレーダビッドソンに全収入をつぎこんでいた人がいたが、持ち株会に入ってなかったので株売却益とは無縁で、6畳の風呂無しアパートで極貧生活をしていた。
 
□次々に独立、引き抜き
 
同期入社は600人もいた。
ところが半年もすると次々と辞めていくではないか。
会社とは一生一社で勤めるものと思い込んでいた私はかなり驚いた。
 
あるものは外資系の会社に引き抜かれて年収が○千万になったとか、
何人かは独立して会社を始めるものもいた。
 
うかうかしているわけにはいかないと感じるようになった。

インクリボンの営業活動が始まった。

 

これはまさに啓蒙活動であり、ある意味では布教活動のようだった。

 

まず、ユーザー自身がインクリボンはメーカー純正品を使わなければならないものと思い込んでいた。

そもそも、メーカー純正品以外のものが存在することもユーザーは知らなかった。

 

また、ユーザーはメーカー純正品を使うように、メーカーから教育されていた。(ある意味では洗脳されていた)

プリンターマニュアルにもメーカー純正品しか使えないと書いてあるし、メンテナンスの人からはメーカー純正品以外を使用すると保証対象外だと脅されていた。

 

正しいこと、当たり前のことがユーザーに伝わっていない。

これはなんとかしなければいけない。

ユーザーがメーカーの呪縛から解放されるよう、誰かが導かないといけない・・・

 

「考えてもみて下さい。」

「単なるプラスチックのカセットに、インクのしみこんだ布地が巻いてあるだけのものがそんなに高いわけがないじゃないですか!」

「消耗品なんだから、ブランド品である必要はありません。」

「使えればいいんですよ。機能さえ備えていればいいんですよ。」

「所詮プリンターにセットしてフタして使うものだから、ブランドにこだわる必要は全くないですよ。」

「ルイヴィトンとかシャネルならいざ知らず、インクリボンにカッコいいとか、かわいいとか、デザインがいいとかは、関係ありませんから」

「プリンターが壊れたらどうするんだ、とご心配のようですが、布地にインクがしみこんだものをプリンターヘッドがたたくだけのものです。プリンターが壊れるわけがありません。」

 

理解してくれる人もいたが、大多数の人は理解してくれなかった。

 

でも、地道に活動を続ければ、きっと道が開けるという確信が私にはあった。

そして、少しずつ、少しずつ、マーケットの扉が開いていった・・・・

インクリボンは高すぎる。

ぼったくりじゃないか。

これじゃユーザーが一方的に不利じゃないか!

 

つまり、こういうことだ。

 

◇プリンターメーカーはプリンターごとに、形の違うインクリボンを設計する。

  ↓

◇プリンターメーカーはそのインクリボンにブランドをつけて販売する。(これをメーカー純正品という)

  ↓

◇メーカー純正品のインクリボンはメーカーまたはメーカーの正規代理店でないと買うことができない。

  ↓

◇メーカー純正品はメチャクチャ高い価格設定で、決して安く売られることはない。

  ↓

◇メーカーは販売店に対して、ユーザーに安く売らないよう強烈に指導する。

  ↓

◇そんなカラクリがあるとは知らず、ユーザーはプリンターを買う。

  ↓

◇ユーザーはプリンターを買ったあとで、インクリボン選ぼうにも選択肢がないことに気づく。

  ↓

◇ユーザーはメーカー純正品をメチャクチャ高い値段で買うしか方法がない。

  ↓

◇メーカーは優先的・独占的地位を利用して、膨大な利益を得る。

  ↓

◇ユーザーは立場が弱く、一方的に不利益を蒙る。

 

これをメーカーの陰謀と言わずして、なんと言おうか。

 

CSK機器販売事業部のオリエンテーションに参加した私は、「サプライセンター」がこのようなカラクリをもつインクリボンを、ドイツから格安に輸入して販売するという話を聞いて、

これだ!

とひらめいた。
 
10,000円のインクリボンもドイツからだと1,000円くらいで輸入できるらしい。
1,000円で輸入して5倍の値段で販売しても、お客様にとっては5割引になる。

商売としても儲かるし、お客様も大喜びのはずだ。

 

この話を聞いてすぐに、私は求められてもいないのに手を挙げ、「サプライセンターに入れて下さい」と叫んでいた。

就職したCSK機器販売事業部のオリエンテーションは、所属の各部門がそれぞれの事業の紹介をするというものだった。

大学時代にパイトをしていたPCショップ部門の紹介、PC外販部門の紹介、半導体販売部門の紹介などがあった。

私はバイトをしていた流れからPCショップに配属されそうな雲行きだったが、営業職を希望していたのでショップ店員にはなりたくなかった。

 

一つの部門である「サプライセンター」の紹介が始まった。

サプライとはコンピュータの消耗品のことらしい。

その中でもプリンターの消耗品であるインクリボンが有望だという。

 

今はコンピュータは家庭にも普及し、一人一台の時代だが、当時コンピュータはメインフレーム(大型コンピュータ)全盛時代で、そこそこの大企業でないと買えないものだった。

同時にプリンターも高額商品で、その消耗品であるインクリボンも高価なものだった。

 

また、コンピュータを操作する人も限られていて、ごく一部の専門家しか操作することはできず、変な使い方をしてコンピュータを壊すわけにもいかないので、皆IBMやNEC,富士通などのコンピュータメーカーの言う通りに取り扱っていた。

つまり、ユーザーはコンピュータメーカーの言いなりになっていた。

 

そんな状況の中、インクリボンは実に異常な販売方法がとられていた。
 
インクリボンとは一般にカートリッジ式のもので、プラスチックのケースの中に、インクのしみこんだ布地のリボンがぐるぐると連続して収納されているだけのものだ。
どう見ても500円か1,000円くらいのコストで作れそうなものだったが、メチャクチャ高い価格設定になっていた。
平気で10,000円とかで売られていたのだ。
 
インクリボンは高すぎる。
ぼったくりじゃないか。
これじゃユーザーが一方的に不利じゃないか!
 
そう思った。
留年するかしないかの瀬戸際だったが、なんとか大学は卒業できた。
 
ただ一社、私を拾ってくれたCSK(当時の社名はコンピューターサービス)にとにかく就職した。
CSKは西新宿の住友ビル(三角ビル)に本社があった。
超高層ビルである。
 
高校生の時に始めて東京に来た時、当時観光のお決まりコースであった新宿の超高層ビル街に来て、この三角ビルに登った、まさにそのビルに就職するとは思わなかった。
 
私は、CSKに就職しようと決意したときから、人事担当に誘われてCSKが当時経営していたPCショップでアルバイトをしていた。
その関係で、PCショップを担当している機器販売事業部に配属になった。
 
当時CSKはオペレーター派遣が主力ビジネスで、新卒の大半を「コンピュータ室のオペレーター」として他社に派遣するつもりで大量採用していた。
コンピュータ室のオペレーターという仕事は、24時間稼動している大手企業のコンピュータルームで磁気テープを架け替えたり、連続用紙を架け替えたりするのが仕事で、3交代制が当たり前だった。
 
私はこの仕事は希望職種ではなかったし、バリバリ仕事をしたかったので、営業をやりたいと思っていた。
だから、機器販売事業部に配属されたことにはある程度満足していた。
 
配属後「オリエンテーション」というものが開催された。
機器販売事業部の各部門を紹介するというのだ。
 
このオリエンテーションが、私の運命を決定づけることになる・・・
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