盛和塾稲盛和夫塾長最後の講話(第27回盛和塾世界大会より)
盛和塾が今年解散となり、36年の歴史に幕を閉じます。
盛和塾は、京セラを創業した稲盛和夫氏が塾長を務めてこられ、これまでに国内外15000人の塾生が稲盛塾長の経営哲学を学んでまいりました。
私も塾生のひとりです。
稲盛盛和塾塾長は京セラを創業し、その後第二電電(今のKDDI)も創業されました。
そして、経営破綻した日本航空を奇跡の再生に導かれました。
その経営塾「盛和塾」が今年末で解散し、36年の歴史に幕を閉じます。
7月17,18日には、横浜市内で最後の世界大会が開催され、国内外から約4800人の経営者らが参加しました。
最終日には代読ではありましたが、稲盛塾長の最後の講話がありました。
その内容は、まさに盛和塾の歴史の集大成であり、我々経営者が未来永劫、忘れてはならない経営哲学、人生哲学、そしてフィロソフィが凝縮されていました。
今回はその内容をご紹介します。
「フィロソフィをいかに語るか」
今回で27回目を数える盛和塾世界大会に、全世界から4800名もの塾生の皆さんにお集まりいただきました。1983年に京都の若手経営者の要請にお応えして始まった、この盛和塾が日本のみならず、世界各国へと広がり、今や塾の数は100を超え、1万5千人に迫る塾生が私の経営哲学を学び、業績を向上させ、従業員の幸せを実現しようと努めていただいていることを大変うれしく思うとともに、感慨深いものがあります。
こうして世界大会で一堂に会した塾生の皆さんに向けて、私が塾長として直接講話をさせていただく機会は、これで最後となります。この最後の大会を締めくくるにあたり、私からは「フィロソフィをいかに語るか」と題して、お話ししたいと思います。
フィロソフィを経営者自身が実践するのみならず、全従業員と共有することの大切さについては、この盛和塾で皆さんに何度もお話ししており、多くの塾生がそのことに努めていただいていることと思います。しかしながら、一方で、「フィロソフィが社員に浸透しない」「フィロソフィに反発する社員がいる」といった声も少なからず耳にすることがあります。
もちろん、その要因は、個々の企業によってそれぞれ異なるわけですが、根本的には、フィロソフィをなぜ従業員に説くのか、いかに説くべきかということについて、よく理解されていないことに原因があるのではないかと私は考えています。そこで、本日は経営者である皆さんが従業員とフィロソフィを共有するにあたり、大切だと私が考えていることについてお話ししていきたいと思います。
まずは、フィロソフィとはどのようなものなのか、改めて振り返ってみたいと思います。皆さんご存じのように、私の人生哲学であり、経営哲学でもある「フィロソフィ」のはじまりは、京セラを創業する前に勤めていた松風工業時代にさかのぼります。
劣悪な研究環境の中であっても、素晴らしい研究成果をあげていくには、どういう心構えで人生を生き、仕事にあたるべきなのか、当時の私は毎日のように必死で考えていました。そして自らに問い、悩み、苦しみながら、考えに考え抜いたことを研究ノートの端に記録していきました。
また、京セラを創業してからは、その自分なりの人生・仕事の要諦のようなものを書きためていたノートを引っ張り出してきて、経営に携わるようになってから気づいたことを書き足していくようにしました。これが私の人生哲学・経営哲学の原型であり、それをまとめ直したものが現在の「フィロソフィ」です。
実際に、私のメモが今も残っています。そこには、「仕事に徹し、謙虚な精神のもと、素直に物事に取り組んで、全身全霊を打ち込んでやろう」「我々は苦難を怖れない、正々堂々とやろう」「我々は人一倍やって、人並みのことができると考えよう」「人間の能力は無限であることを信じ、飽くなき努力の追求を続けよう」といった言葉が記されています。現在のフィロソフィの中核を構成する概念が、すでに明確に示されています。
私は、こうした自らの信念というべき考え方を仕事で実践すると同時に、従業員と共有するように努めました。それは決して、「こういう考え方でみんなが働いてくれれば、会社の業績が良くなる、自分が楽になる」といった打算からではありませんでした。
京セラの従業員にフィロソフィを説く私のベースにあったのは、何よりもみんなに幸せになってほしいという純粋な思いでした。「こういう考え方で生きていけば、充実した幸せな人生を送ることができるはずだ」と強く思っていたからこそ、より多くの人々にそのことを知らせたかったのです。
盛和塾の中にはいらっしゃらないと思いますが、フィロソフィを会社の方針に従業員を従わせるための行動規範、あるいは従業員を精力的に働かせるためのツールだと勘違いしている経営者がいます。決してそうではありません。もし、そのような経営者個人のため、あるいは会社の業績を良くするためだけの手段としてフィロソフィをとらえて、社内で説いているとするならば、決して従業員の共感を得ることはできませんし、浸透することもありません。
このことは自明のこととして、皆さん理解しておられると思いますが、そのような自己本位的な気持ちを完全に排除することができていない人も、中にはいらっしゃるのではないでしょうか。
「従業員のため」「素晴らしい人生を送ってほしい」と言っていたとしても、少しでも「会社の業績のため」「自分が楽になりたいから」といった気持ちがあれば、それは知らず知らずのうちに従業員に伝わっていきます。
「社長は口ではフィロソフィはみんなのためだと言っているが、本当は自分のためなんだ」とすぐに見抜かれてしまいます。会社トップである皆さんが心に思っていることは、たとえ口にしなくても、必ず周囲に伝わり、強い影響を及ぼしていきます。
あくまでも、まずは「従業員に素晴らしい人生を送ってほしい」という強い思い、限りない愛がすべての根底になければなりません。その上で、「こういう考え方を持てば、素晴らしい人生を送ることができる」という心からの信念をもって、従業員に真摯に語りかけるということでなければなりません。
つまり、皆さん自身が自らの人生を通して、フィロソフィが持つ偉大な力を実感することが大切です。
私自身は、若いときに多くの挫折を味わい、たくさんの苦労を経験しました。旧制中学校の受験には二度も失敗し、肺結核にもかかり、志望大学にも合格しませんでした。そして、就職試験でも希望した会社には入れず、ようやく入った会社は今にも潰れそうな会社でした。
そのような試練とも言えるような少年時代、青年時代を送ってきたわけですが、先ほど述べたように、フィロソフィの原型となる考え方をもとに、一心不乱に目の前の仕事に邁進し、研究に没頭することで、その後の私の人生は大きく開けていきました。
1959年に徒手空拳で創業した京セラは、初年度から黒字を計上し、その後、発展を続け、今ではファインセラミックスの特性を活かした各種部品、デバイスのみならず、通信機器や情報機器などの完成品までを提供する売上1兆6千億円規模の総合メーカーへと成長を遂げています。
また、1984年に電気通信事業の自由化に際して立ち上げた第二電電も、新電電の中で最も不利だと言われながらもトップを走り続け、今ではKDDIとして5兆円を超える売上を誇る、日本を代表する通信事業者へと成長しています。
さらには、2010年からおよそ3年にわたって携わった日本航空の再建も、晩節を汚すのではないかと心配されましたが、2012年には再上場を果たすなど、無事に任を果たすことができました。再生を遂げた日本航空は、その後も高収益を維持し続けています。
それだけではありません。80年を超える人生を生きてくる中で、私は幾度も自分の想像を超えた素晴らしい出来事に遭遇してきました。それは、決して運がいい、つまり時代の潮流に乗ったからとか、ましてや自分の能力によるものではないと私は考えています。
自分の想像を超えた素晴らしい人生を送ることができたのは、フィロソフィの持つ力によるものであると私は確信しています。つまり、より良く生きようとするピュアな考え方は素晴らしい運命を招き寄せる強大なパワーを持っているのです。
20世紀初頭のイギリスの啓蒙思想家であるジェームズ・アレンは、次のように述べています。
「清らかな人間ほど、目の前の目標も、人生の目的も、けがれた人間よりもはるかに容易に達成できる傾向にあります。けがれた人間が敗北を恐れて踏み込もうともしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に勝利を手に入れてしまうことが少なくありません」
このようにジェームズ・アレンは述べていますが、なぜ純粋で美しい心から発したフィロソフィが偉大なパワーを発揮するのでしょうか。それは、この世界にはすべての存在を善き方向に導こうとする宇宙の意志が流れており、その流れと合致することで、物事は必ずや成長発展する方向へと進んでいくからです。
あるいは、次のようにたとえることもできます。人生を大海原を旅する航海にたとえるならば、我々は思い通りの人生を送るために、まずは必死になって自力で船を漕ぐことが必要です。また、仲間の協力や支援してくれる人々の助けも必要ですが、それだけでは遠くにたどり着くことはできません。船の前進を助けてくれる、この世に流れる他力の風を受けることではじめて、はるか未踏の大地をめざし、船を進めることができます。
この他力の風を受けるためには、帆をあげなければならないわけですが、宇宙の意志に反するような、邪まな心であげた帆は穴だらけで、よしんば他力の風が吹いても、船は前進する力を得ることは決してありません。それに対して、純粋で美しい心のもとにあげた帆は他力の風を力強く受け、順風満帆、大海原を航海することができます。
私は、フィロソフィを理解し、実践することが、この世に流れる他力の風を受けるための帆を張るという行為そのものであり、自分の心を美しい心に磨いていく営みそのものではないかと考えています。
そのようにフィロソフィの持つ素晴らしい力を理解することができるならば、おのずからフィロソフィに接する姿勢も変わってくるはずです。
もしフィロソフィを共有することに対して従業員から反発を受けるようなことがあったとしても、次のように堂々と言うことができるはずです。
「私は根拠もなく、皆さんにフィロソフィを強制しているのではありません。私は若い頃から、『不確実な人生だが、充実した素晴らしい人生を送っていくことは必ずできるはずだ』と思い、どうすればそれが実現できるか、ずっと考えていました。そして、考え方によって人生が変わるのではないかと思い至り、こういう考え方で人生を生きるべきではないかと自ら体得してきたことをフィロソフィとしてまとめて、皆さんに訴えてきました」
「その結果、会社が想像を超えるまでに発展してきました。また、私自身の人生も大きく開けていきました。このことを見てもわかりますように、フィロソフィは決して間違いではなかった。結果として証明されているわけです。フィロソフィは会社の発展に貢献する哲学であるだけではなく、皆さん個々人の人生をもっと充実した素晴らしいものにしていく真理ではないかと思います」
そのように、私は従業員に向けて話をしてきました。フィロソフィの持つ力を真に理解していればこそ、フィロソフィは従業員が人生を幸せに送るためにこそあるのだと、真正面から説くことができたわけです。ぜひ皆さんもフィロソフィを語る前提として、まずはフィロソフィにはそうした素晴らしい力があるのだということを理解し、信じていただきたいと思います。
人間は自分が信じてもいないものを人に熱意をもって伝えることはできませんし、たとえ伝えようとしても、決して人を得心させることはできないはずです。
信じるとは、単に知識として知っているという程度では不十分で、自らの「信念」にまで高め、実践することが必要です。このことを、東洋哲学の大家である安岡正篤さんは「知識」「見識」「胆識」という言葉で教えてくれています。
人間は生きていくために、いろいろな知識を身につける必要があります。しかし、そのような知識を持つだけでは、実際にはほとんど役に立ちません。知識を「こうしなければならない」という信念にまで高めることで、「見識」にしていかなければなりません。
しかし、それでもまだ不十分です。さらにその見識を何があろうが絶対に実行するという、強い決意に裏打ちされた「胆識」にまで高めることが必要です。
フィロソフィも同じです。「論語読みの論語知らず」とよく言われますが、フィロソフィを学び、それを従業員に説こうとする経営者も、往々にして「フィロソフィ読みのフィロソフィ知らず」になってしまいがちです。
誰しも、自分は何度も塾長からフィロソフィの話を聞いたことがあるし、本でも読んだことがある。言われれば「ああ、それなら知っている」と答える。だから、自分は知っているつもりで従業員に対してフィロソフィを説いているわけですが、実際には、自分の信念にまで高まっていませんから、伝わっていかないのです。
フィロソフィを知っているだけでは何にもなりません。それが信念にまで高まった見識となり、さらに実践を促す胆識となってはじめて、皆さんが説く言葉が従業員一人ひとりの心に響いていくのです。
ここまで、フィロソフィとはどのようなものか、また、フィロソフィの持つ力を信じることの大切さについてお話ししてきました。次に、経営者として、従業員に対してフィロソフィをどのように説くのか、その具体的な方法や姿勢についてお話ししていきたいと思います。
「真のコミュニケーションは修行の場」
第一に、フィロソフィを説く経営者に求められることは、最初はまね事でも良いから、私が話したフィロソフィを自分の考え方のように、そのまま従業員に伝えていくことです。
フィロソフィを聞いてすぐに、誰もがそれを揺るぎない信念とし、自らの血肉にし、実践していくことができるわけではありません。多くの塾生の皆さんは、盛和塾に入塾してから私のフィロソフィを勉強し、「稲盛塾長はこういうことを言っている」と聞いて、それをそのまま社内に持ち帰り、オウム返しに従業員に話をするというケースが大半だろうと思います。
想像するに、それまでは、従業員に生き方や働き方について話をしようと思っても、どういうふうに話をすればよいのか、その方法がわからなかったのだと思います。生半可に「自分はこう思う」と言ってみたところで、それが陳腐なものであれば、従業員は誰も信用してくれませんし、むしろ逆効果になってしまいかねません。
それに比べて、私の言葉を借りて、そのまま従業員に伝えてみると、不思議と権威がついたみたいになり、従業員もうなずいて聞いてくれるようになった。そういうケースが往々にしてあるようです。
はじめは、そのように受け売りでも良いから、とにかく一切の疑念を持たずに、盛和塾で学んだことを鵜呑みにして、まねして話すことから始めればよいと思います。
もちろん、その間、自分自身でも懸命に勉強していかなければなりません。たとえば、機関誌「盛和塾」のバックナンバーや私の書籍を繰り返し読んだりする。また、稲盛デジタル図書館というサービスを活用して、いつでもどこでも私の講話を視聴したりする。そのように学ぶことで、次第に私の考え方が自分のものになっていきます。そうして何年か経てば、それはもう稲盛塾長の考えではなく、社長である自分自身の考えとなっていくのです。
そうすれば、「自分はこう思う」と話しても、考え方が間違っていませんし、人の心を揺り動かすような、感動的な言葉で話していくことができるようになるはずです。
自分には教養がない、ましてや哲学の本、宗教の本なんて読んだことがない。学生時代もあまり勉強していなかったので、ボキャブラリーも不足している。だから、塾長の講話録から抜き出して、そのまま話をする。それでいいのです。
皆さんだけではありません。私もかつてはそうでした。松下幸之助さんから頂戴したもの、安岡正篤さんや中村天風さんから借用したものを使わせていただきました。最初は借り物でも構いません。それを繰り返し説いているうちに、やがて自分のものとして、フィロソフィを語ることができるようになるはずです。
第二に、フィロソフィを説く経営者に求められることは、率先垂範自ら実践に努めることです。
いかに素晴らしい理念、フィロソフィを掲げて、社長が毎日のように説いて回ったところで、社長自身の実践が伴っていなければ、従業員は付け焼き刃だと、すぐにそれを見抜きます。
もし、フィロソフィを一生懸命伝えているつもりなのに、自分の思いが浸透していない、逆に不信感を持たれているとすれば、その経営者の生きる姿勢が、従業員から尊敬されるレベルにまで達していないということです。
よく一般の企業でも、社長室に社是や社訓を書いた額が掲げられています。ところが往々にして、その社長は、書いてあることと全く違ったことを平気でやっているケースがあります。それでは、いくら高邁なフィロソフィを日頃説かれても、全く共鳴することはできないはずです。
「社長は、言っていることとやっていることが全然違う。朝礼では『みんな一生懸命に頑張ってほしい。私も皆さんの先頭に立って、皆さんの幸せのために、誰にも負けない努力をするつもりだ』と言いながら、昼からろくに仕事もせずに遊びほうけている。あんな社長だから、うちの会社はダメになってしまうんだ」
そのように従業員から言われている社長は、決して少なくないだろうと思います。単に従業員を駆り立てるためだけにフィロソフィを説くのではなく、経営者である自分自身が誰よりも率先垂範、フィロソフィの実践に努めることが何よりも大切です。
経営者本人が常に自らに厳しく規範を課し、人格を高めようとし続ける姿を示すならば、それを見た従業員もおのずからフィロソフィの実践に努めようとするはずです。
「社長がそういう立派な考え方を持ち、その実践に努めているから、我々従業員は共鳴もするし尊敬もする、だから社長といっしょにフィロソフィの実践に努め、会社発展に尽くしていこう」と、従業員が自然と考えるようにしていかなければなりません。
そのように経営者の心に一点のやましい気持ちもなく、真摯にフィロソフィの実践に努めているからこそ、時には従業員に何の遠慮をすることなく、厳しい言葉をかけることもできるようになります。
実際に私は、いい加減な仕事をしている従業員に対しては、次のように言うことができました。
「私はあなたも含めた全従業員を幸せにするために、朝は君たちよりも早く出てきて、開発から製造、営業まで見て、いつ寝たかわからないぐらいに必死に頑張っている。それなのに、君はそんないい加減な働きぶりでどうするのだ。仲間のためにも、自分の家族のためにも、そして自分のためにも、一生懸命働いてもらわなくては困る」。そのようによく叱ったものです。
二代目、三代目になると、意思伝達するのに、きついことを言ったら逃げられはしないか、反発されはしないだろうかと、どうしても遠慮しがちになります。そうすると、フィロソフィを語るにしても格好よくしようと思うものですから、ますます意思伝達が難しくなります。私の場合には、そのようなことを気にすることなく、はっきりと言うべきことを言うことができました。
それは、常日ごろから自分が誰よりもフィロソフィを実践しようと努めているという自負があったからですが、従業員のために社長が誰よりも苦労している姿ほど、共感を得るものはありません。ですから、会社の中で経営トップが一番苦労しなければなりません。そうすれば、必ず従業員はついてきてくれるものです。
常日ごろから、誰よりも率先垂範、フィロソフィの実践に努め、尊敬されるような行動を続けているからこそ、従業員は納得して、その言葉を聞いてくれます。
従業員も、日頃から経営者の率先垂範する姿を見ていればこそ、嘘偽りのないその言葉を信じて、フィロソフィの実践に向けて自らを鼓舞することができるはずです。
第三に、フィロソフィを説く経営者は、従業員と本音で語り合うことに努めなければなりません。
経営者がフィロソフィの力を信じ、率先垂範していたとして、「それはあくまできれいごとだ」として、斜に構えて見ている従業員もいます。そのように斜に構えた従業員とは、本音で語り合うことが必要です。彼らが心に思っていることを放置していれば、ますます不満をためていきますし、周囲に悪影響を及ぼし、会社内のフィロソフィ共有にとってもマイナスに作用します。
では、具体的にどのようにして本音で語り合うことができるのでしょうか。仕事を通じて、互いに本音で語り合えるのであれば、それに越したことはありませんが、私の場合には、コンパの場を活用しました。
意思伝達をしようと思っても、杓子定規で、かしこまって話をしたのでは、誰も聞いてくれません。聞いていたとしても、右から左に抜けてしまいます。お酒でも酌み交わしながら、人の心の琴線に触れるような話し方をしなければ聞いてくれません。だから、私は昔からコンパをコミュニケーションの最大の手段として使ってきました。
京セラでも、まだ会社の規模が小さかったころまでは、私がコンパに出ていって、直接コミュニケーションをとっていました。その最大のイベントが忘年会でした。従業員が1000人近くになっていた頃のことでしょうか。どの職場でも忘年会を開催するわけですが、その全てに私が出席しました。12月は1日も休まずに忘年会に出席したこともあります。それぞれ、50人くらいの規模ですが、全部の忘年会に出席して、「頼むぞ」と言葉をかけ、酒をついで回りました。また、熱く夢を語ったものです。
そうすると、不信感を持っている従業員は「はあ、そうですか」という冷たい反応で、すぐにわかります。「おまえ、何か不満があるのか」と聞いても、はじめは「いや、何でもありません」と言うだけです。しかし、さらにつつくと、腹に一物ある従業員に限って、必ず不満を言い始めます。
聞いてみると、こちらの気配りが足りないために不満を持たせているケースもありますが、8割ぐらいは本人がひねくれていて逆恨みをしているようなケースです。ですから、「ちょっと待て。だいたい、おまえの人間性はねじれてはおらんか」とズバリ言うわけです。先ほどまでは、「まあ、頑張れよ」と言っていたのに、今度は突然、「コラッ! おまえ」と取っ捕まえて、説教を始めるわけです。そのようなことから、雨降って地固まるというように、一気に人間関係が強固になることもありました。
相手がそういう心情を吐露したのも、一杯飲んで本音が出たからです。誰が何を思っているか、どのような不満を持っているか、あるいは、どんな悩みを抱えているか、そのような本音が出る場であればこそ、真のコミュニケーションが図れるわけです。
一生懸命に頑張ってくれる人には、「ありがとう、さらに努力してくれ」と言うし、間違っている人には、「おまえは間違っている」とはっきり言う。また、経営者である自分自身が間違っている点を指摘されれば、「なるほどそうだ。直すようにする」と、こちらも素直に反省する。まさに修行の場です。コンパの場が、従業員にとっても、経営者にとっても、自分を鍛えていく場になるわけです。
私がこのスタイルでやってきた中で、海外においても、本音でぶつかり合ったエピソードがあります。
それは、かつて米国の京セラ関連会社の社長、副社長級の人たちをサンディエゴに集めて、私の経営哲学を理解してもらうために、2日間かけてセミナーを開いた時のことでした。このセミナーでは、前もって英訳した私の著書『心を高める、経営を伸ばす』を渡し、それに対する感想文を書いてもらったのですが、読んでみると、「こんな考え方は嫌だ」という内容ばかりでした。
「この本には、『我々はお金を目的に働いてはいけません』と書いてある。我々アメリカ人はお金のために働いているのに、お金のために働いたらいけませんとはどういうことか。これは我々のアメリカンスタイルとは全く考え方が違う」と、セミナーを始める前から、私のフィロソフィは米国の幹部連中から総スカンでした。
そこで私はフィロソフィを噛んで含めて、一生懸命に話をしました。「私は従業員の皆さんを本当に幸せにしてあげたいと思って、誠心誠意頑張っています。それを実現していくための考え方、行動指針はこういうもので、人間として立派なものでなければならない」ということを縷々(るる)説明しました。
私が直接、丸1日かけて、魂を込めて話したところ、当初は総スカンだったみんなが納得してくれたどころか、「素晴らしい」と共感してくれるようになりました。MITのドクターコース、エール大学、ハーバード大学を出たようなエリートたちも納得してくれて、「京セラフィロソフィは素晴らしい。我々もこれからは、この考え方で仕事をしていこう」と、セミナー2日目にはみんな大賛同してくれたのです。
問題は、その後でした。
「盛和塾の火は世界の隅々まで照らしていく」
生活習慣も違えば哲学、宗教、歴史、考え方も全く違う人たちを心酔させ、わかってもらい、やれやれと思ったセミナー2日目の最後です。
「みんな、これからはフィロソフィで仕事を進めていきましょう」と言って終わろうとしたら、10年も働いている幹部が、質問があると手を挙げました。
「昨日からお話を伺っていますと、愛とか思いやりということばかりお話しされていますが、3、4年ほど前、京都で開催された経営会議で、ある関連会社の社長が今までずっと赤字だった会社を黒字にしたと意気揚々と発表した時のことを覚えておられるでしょうか」
「その時、けんもほろろに彼を叱っておられたように思います。今まで赤字の時も叱られ、黒字になってもけんもほろろの扱いをされたと、彼は非常に落胆していました。私も、黒字にしてもちっとも褒めない、なんと冷たい人なんだと正直思いました」
「そのような過去の言動と、昨日からお話しされてきた愛とか思いやり、従業員の幸せのため、というお話とは、あまりに矛盾しているのではないでしょうか」
そのように幹部社員が本音を私にぶつけてきたわけです。
みんなが「なるほどな」とフィロソフィに納得しているところに、このようなことを言われてしまえば、それこそ2日間の話が全て台無しになります。なるほど、ドクター・イナモリは自分のことを正当化するために百万言費やしているだけなのだと、みんなの気持ちが一発で変わってしまいます。だから、私もそこで堂々と反論しなければなりません。私は、次のように答えました。
「そうだ、確かにあなたが言う通り、私は冷たかったかもしれない。だが問題は、なぜ冷たくしたのかだ。今までずっと赤字を続けてきた会社の社長が黒字を出した。しかし、あの時の黒字は豆粒ほどの黒字でしかなかった。一方、今までの累積赤字たるや相当な額になっている。それで褒められるだろうか」
「もし、それを私が褒めたら、彼は喜ぶかもしれない。だが、彼自身がそれでよしとなってしまったらどうだろう。『雇用を守っていく。従業員を幸せにしてあげたいと思っている』と私は言った。それには、毎年毎年十分な利益を確保し、またその拡大をはかっていかなければならない。しかし、そんなわずかな利益では従業員の賃上げどころか、雇用さえ守っていけるはずがないだろう。だからこそ、私は彼に『そんなもの利益のうちに入るものか』と厳しく言ったのだ」
「それを聞いた彼は大変落ち込みもしたかもしれない。また、私を恨んだかもしれない。しかし、私は彼自身のこれからの人間としての成長も考えて、あえて恨まれてもいいと思って、そう言ったのだ」
「翌年、彼は頑張って、さらに大きな利益を出してきた。そして、今では十分な利益が出るようになったので、私は今は『立派なものだ』と彼を褒めている。しかし、もしあの時、あの微々たる利益で私が褒めていたら、彼は経営者として、また人間としてそれ以上成長しなかっただろうし、今日の立派な会社にはなっていなかっただろう」
そのように、私は本音に対して本音をぶつけたわけですが、みんなを引っ張っていくための対話というものは、このようなストレートなものでなければならないと思います。
恐れずに従業員の中に入っていって本音で会話をしてください。その会話も、取ってつけたみたいに中に入っていけば警戒されますから、コミュニケーションがとりやすい形を工夫して考えていくことが大切です。
私の場合には、コンパという形をとりましたが、皆さんの場合には、それぞれの会社の環境、また従業員の個々の状況をよくよく考慮した上で、最もふさわしいコミュニケーションの場をつくり、本音で対話することに努めていただきたいと思います。
第四に、フィロソフィを説く経営者は、従業員と共に自らも学び続ける姿勢を持たなければなりません。
いかに経営者自身がフィロソフィの力を強く信じ、日頃から率先垂範に努めたとしても、完璧には実践できないのが人間です。
それでも、「人間としてこういう生き方をするべきだ」「経営者として、こういうリーダーになるべきだ」ということを理解して、少しでもそれに近づこうと懸命に生きている人と、そう思わずに漫然と生きている人では、人生や経営の結果は全く違ってきます。
体得できるかできないかではなく、折に触れて反省し、体得しようと努力を続けることが大切だと、私は思っています。塾生の皆さんが社内でフィロソフィの浸透、共有に努めるにあたっても、よくよくこのことを理解した上で話をしなければなりません。
フィロソフィを完全に実行できる人はいないのです。ですから、以前にも申し上げましたが、経営者である皆さん自身が、率直に社員に次のように言わなければなりません。
「私は、皆さんにフィロソフィを学べと偉そうに言っていますが、それを自分自身で実行できているわけではありません。いまだかつてフィロソフィのすべてを実行できたためしがありません。その意味では、まだ一介の書生であり、門前の小僧でしかありませんので、これから一生涯をかけて、実行できるよう努力していくつもりです」
「しかし自分ができていないからといって、フィロソフィのことを教えなくていいというものではありません。少なくとも、『こうあるべきではないか』ということだけは、私も言わなければなりません。そうすることで、社員の皆さんが成長し、会社をさらに発展させてほしいからです。また、そのことが、今後の会社を発展に導くだけでなく、皆さんの人生にも役立つはずです」
フィロソフィを説くにあたっては、このような姿勢で話をしていくことが大切です。
私自身も含めて、フィロソフィをすべて完璧に実行できる人はいません。自分もできていないが、何とか自分のものにしようと努力を続ける行為そのものが尊いのです。ぜひ塾生の皆さんには、フィロソフィをわかったつもりになるのではなく、従業員とともに繰り返し学び、自らの血肉と化し、経営の現場で実践していただきたいと思います。
そのように共に繰り返しフィロソフィを学ぼうとする経営者の姿勢は、必ずや一人ひとりの従業員の心にも響き、フィロソフィの実践を促すことになるはずです。
そして、実際にフィロソフィの実践を通じて、一人でも多くの従業員が素晴らしい人生を実現していく。その幸せをあたかも自分自身の幸せであるかのように感じることができる。それこそが経営者にとって最大の喜びであるとさえ言えるのではないでしょうか。
極端に言えば、その従業員がたとえ自分の会社を離れることになったとしても、フィロソフィを実践して、素晴らしい人生を歩んでくれれば、それでいいのです。
実際に、私はかつて若い社員との懇親会で、次のように言ったことがあります。「京セラにいなくてもいいんです。京セラを辞めてよそに行っても、このフィロソフィで説かれたような生き様で生きていくなら、あなたには素晴らしい人生が開けていくはずです」
それは私が心の底から発した言葉ですが、従業員一人ひとりがフィロソフィを真摯に実践した結果として、素晴らしい人生を送ることができたならば、自分の人生を実り豊かにしてくれる場として、会社をさらに信頼してくれるようになります。そして、結果として、従業員の定着率が増すとともにモチベーションが向上し、組織が活性化して、会社は発展に向かっていくはずです。
そのように従業員から信頼される企業、また、従業員自らが進んでその発展に尽力してくれるような企業を、ぜひ皆さんの手で築いていっていただきたいと思います。
それは、従業員一人ひとりに対する深い愛情をもって、彼らを幸せにする、利他行そのものであり、そうした利他行に努めている塾生一人ひとりも必ずや素晴らしい経営者人生を送ることができるはずです。
これだけ多くの経営者が従業員の幸せのために、真摯に人生哲学、経営哲学を学ぶ集団は、世界中を探しても他に類を見ない唯一無二の存在であろうかと思います。
京都の地から始まり、全世界に広がった盛和塾という組織そのものは、本年 12月をもって幕を閉じることになります。しかし、これからもフィロソフィを学び続けると同時に、そのフィロソフィを従業員と共有し、会社を健全な発展に導くことを通じて、一人でも多くの人を幸せにしていくという皆さん経営者の使命に変わりはありません。
むしろそれは終わりではなく、皆さんにとっては新たな始まりでもあります。今までは私が塾長として、皆さんに語りかけてきました。これからは、皆さん自身が自問自答しながら、この盛和塾での学びをさらに深め、実践していかなければなりません。
そして、私自身がそうであったように、今度は皆さんがその実践の輪を従業員やその家族といった周囲の人たちに広げていっていただきたいと思います。この盛和塾で灯された火は、決して消えることなく、これからも皆さんの手によって受け継がれ、世界の隅々までをも照らし出していく力をもっていると信じています。
講話の中でも触れたように、幸いにして私がこれまで盛和塾でお話ししてきたことのほとんどは、盛和塾機関誌のバックナンバーに収録されていますし、多数の書籍も市販されています。また、稲盛デジタル図書館をはじめ、講話を映像でビデオ視聴することも容易にできるようになっています。さらには、私の資料を収集・保管し、発信活動を行っていく稲盛ライブラリーという施設も整備されています。
私は過去に、もう語り尽くしたと思うほどに、皆さんに経営の要諦をお話ししてきました。それらの記録は皆さんがいつでも学べる形で残されています。今後はぜひそうした教材を活用しながら、新たな形で学びを継続し、実践に努めていただきたいと思います。
この盛和塾を始めて、私が最も嬉しかったことは、多くの塾生から「もし盛和塾に入塾していなければ、私の会社はつぶれていたかもしれない。学んだ経営の要諦を実践することで、経営がうまくいくようになり、会社を救うことができ、従業員を路頭に迷わせることがありませんでした」という声を聞くことでした。そのようなお話に接するたびに、私は「この盛和塾を続けてきて本当によかった」としみじみ思ったものです。
それはとりもなおさず、世のため人のために尽くすという私の人生観の実践であり、一人でも多くの経営者が素晴らしい経営の舵取りを行うことで、その企業に関係するすべての人々をも幸せにすることができるのではないか、という純粋な思いから始めたことでした。
思い返せば、私が今日まで盛和塾活動を続けることができたのは、ひとえに私の言葉を真摯に聞いていただいた塾生の皆さんがいてくれたからであり、どうすれば経営がうまくいくのかという問いに対する答えを渇望し続ける皆さんの純粋な思いに支えられてきたからに他なりません。
ある意味では、皆さんのおかげで私はすばらしい人生を送ることができたように思います。私は自ら創業した京セラとKDDI、さらには再生に携わった日本航空の経営を通じて、私が直接関わった企業に集う従業員の物心両面の幸せを追求することに努めてきました。
しかし、それにとどまらず、この盛和塾のおかげで、私は直接お目にかかれない塾生の皆さんの企業に勤めている従業員とその家族も含めて、間接的に人々を幸せにするお手伝いができたのではないかと思います。つまり、そのような大いなる利他行に努める機会を塾生の皆さんが私に与えてくれたと思うのです。そのことに対して、この場を借りて心から感謝したいと思います。
振り返ると、私自身、本当に幸せな時間を皆さんとともに過ごさせていただきました。盛和塾の前身となる盛友塾が発足した1983年以来、今日まで36年にわたって、皆さんと日本や世界を旅し、車座になり、膝を突き合わせながら、親しく語り合ってきました。
盛和塾が終わろうと、私の心の中に、ソウルメイトである皆さん塾生は生き続けます。同じように、皆さんの今後の経営に、私のフィロソフィが生き続けることを願い、最後の盛和塾世界大会を結ぶ言葉にさせていただきます。
本当にありがとうございました。