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ろくに勉強もしなかったのに、中央大学はなぜだか私を進級させてくれた。
 
そして大学3年生になった。
 
1・2年では、出席を取るのは語学の授業だけだったのだが、3年になってその語学の授業もなくなった。
すべての授業が出席を取らなくなったのだ。
 
これはどうみても、大学には来るな!という意味だ。
私はそう解釈した。

 
さて、それまで授業や麻雀の合い間にバイトをしているだけでは、なかなか生活は楽にはならなかった。
時給500円や600円で4時間、5時間働いても、月に5万円くらいしか稼げないのだ。
 
働けど働けど 我が暮らし楽にならざり ぢっと手を見る    −−石川啄木
などとは言ってられなかった。
なんとか、もっと収入を増やす方法はないものか・・・
 
大学は授業に来なくていいと言っているので、私は大学には行かないことに決めた。
そして稼げるバイトを探し始めた。
 
時給が高いといえば、激しい肉体労働。
または、深夜・早朝の労働。
もしくは、リスクを伴う労働・・・
 
収入を増やすには、長時間労働。
はたまた、バイトを掛け持ちするか・・・
 
そして私は、ついに早朝出勤のトラック配送のバイトを見つけた。
大手牛乳会社でスーパーマーケット向けに、2トントラックで牛乳を配送するという仕事だ。
 
朝5時に出勤して昼の2時くらいまで働けば、一日8000円はもらえるという。
学生にとっては、稀に見る高収入のバイトだ。
 
もう迷うことはない。
それまでやっていたトンカツ屋のバイトは夕方からなので、牛乳のトラック配送とトンカツ屋を掛け持ちで、収入を増やそう!
 
 (激しい肉体労働)+(早朝労働)+(交通事故リスクのある労働)=高い時給
 (高い時給)+(バイト掛け持ち)=高い日給
 
これしかない!
 
こうして、毎朝4時起き、バイト掛け持ちの超ハードな生活が始まった。
山口下宿のすぐ近く、京王線中河原駅前にあるトンカツ屋のバイトを見つけた。
 
賄い付で時給600円。
その賄いとは、上質のトンカツにキャベツ大盛りの定食が仕事終了後に食べられるという、飢えた私にはこの上もなく魅力的なものだった。
 
仕事はといえば、簡単なキャベツの盛り付けをしたり、味噌汁やご飯をよそったり、それと皿洗いくらいで、とても簡単なものだった。
 
かんたん楽チンなそのバイトも、ひとつだけつらいことがあった。
それは、とても「ヒマだった」ことだ。
 
店の経営者(マスター)はボンボン育ちで、さして苦労もせずトンカツ屋を始めたらしく、お客さんを集める努力を怠っていた。
だから、滅多に店が混むことはなかった。
 
そうするとヒマな時間が多い。
ヒマだと、バイトの私はずっと何もせずに立っていなければならない。
余りにもヒマな時間が続くと、マスターがイライラしてくる。
 
別に何もする必要がないはずのに、イライラをバイトにぶつけてくるのだ。
あそこを掃除しろ、あそこを拭け・・・
 
つらいのはそれくらいだったのだが、そういう楽チンなバイトでも、ついにはクビを宣告されることになる。
全くもって、不公平で、理不尽すぎるバイトをやったことがある。
 
それは東京都府中市にある、ある運送会社でのお歳暮配達のバイトだった。
 
免許とりたてということもあって、車が運転したくてたまらなかった私は、少々バイト代が安くてもいいや!と思い、トラックが運転できるこのバイトを始めた。
大好きな車の運転ができて、バイト代ももらえるのは、まさに一石二鳥だ。
そのバイト代は、お歳暮を1個配達すると80円もらえるというものだった。
 
さあ、がんばって稼ごう!
配達するトラック一杯のお歳暮と、地図を渡されて、張り切って京王線聖蹟桜ヶ丘駅近くの配達エリアに向かった。
 
ところが、渡された地図はえらく大雑把なものだった。
配達エリアの細かな番地が載っていないのだ。
届け先の住所とその地図だけでは、どこに何さん宅があるのか、いくらさがしても見つからなかった。
当時はもちろんカーナビなんて便利なものはないので、これには参った。
 
こういうときは、トラックの存在自体も邪魔になってくる。
結局、トラックを置いて、徒歩で必死になってお歳暮の届け先をさがし回った。
 
まる1日かけて、へとへとになって働いたが、健闘むなしく、配達できたのは20個くらいだけだった。
結局、ほとんどの荷物を配達基地まで持ち帰るハメになってしまった。
 
悲惨なことに、1日働いて収入はたった1600円。
 
あとで聞いてみて、驚きのカラクリがわかった。
 
マンション・団地などの配達しやすいところは、全部ベテラン社員たちが独占していて、メチャクチャ配達しにくい「残りものの地域」が私たちバイトに与えられていたのだ。
 
マンション・団地などは、届け先が集中しているので、一箇所で数十個のお歳暮がいっぺんに配達できる。
これによって、ベテラン社員達は、苦労なくいとも簡単に給料が稼げるのだ。
そういう楽なところはバイトには一切回って来ないという、インチキバイトだったのだ。
 
1日かけて、へとへとになって配達した私はあまりにも愚かだった。
ホント、ひどい話である。
一度だけ、家庭教師をやったことがある。
 
時給500円とか600円に甘んじていた私たちには、『家庭教師』は確実に時給1000円以上が期待できる理想のバイトだった。
 
ところが、東大生ならいざしらず、中央大学では家庭教師の口をさがすのはかなり難しかった。
でも時給1000円を求めて、いくつかアイデアを実行してみた。
 
まず大学のバイト募集の掲示板に「家庭教師やります」と貼り出した。
でも反応がない。
しかたがない、こんどは電柱にビラを貼ろう・・・
 
山口下宿の周辺、特に京王線中河原駅の周辺の電柱に「家庭教師やります」と貼り出したのだ。
そして何日か経って、ついに反応がきた!
 
家庭教師先は、山口下宿のすぐ近くの女子中学生だ。
時給1000円で、夕食もごちそうになれるという好条件だった。
 
喜び勇んで、はりきって家庭教師をやったが、でもそれも長くは続かなかった。
 
決して教え方がヘタだったとは思わないが、その女子中学生とウマが合わなかったというか、かなり生意気な中学生で、教えている最中にも険悪な雰囲気になることがたびたびあった。
あるいはあまりにも腹が減りすぎていて、女子中学生の家族と夕食をとるときに、ガツガツとやたらめったら食べすぎてひんしゅくを買ったのかもしれない。
 
次第にお呼びがかからなくなり、ついにはせっかくの時給1000円も2ヶ月くらいで泡と消えてしまった。
 
やはり、時給5〜600円のバイトに耐えるか、激しい肉体労働の世界に足を踏み入れるしかないのだろうか・・・・
大学2年の頃は、いろいろなバイトにチャレンジした。
 
ある日、結構いいバイトを見つけた。
掃除のアルバイトで、時給600円ももらえるという。
話を聞いてみると、工場の掃除だという。
 
結構、カンタンだな・・・
 
そう思って早速バイトに行った。
が、決して甘くはなかった。
 
連れて行かれたのはNECの工場だった。
行ってみると、工場の天井についている、やたらと長い蛍光灯とその傘を掃除する仕事だった。
 
蛍光灯も蛍光灯の傘も、ドロドロに汚れていたが、洗剤を使えば見違えるほどきれいになった。
それまで暗かった電灯も、洗剤で拭いた後は何倍も明るくなるので結構楽しかった。
 
だが、ひとつだけ問題点が、それも致命的な問題点があった。
 
蛍光灯を拭いている間も、電気が通じっぱなしだったのだ。
根が真面目だから、蛍光灯のソケットまできれいに掃除してしまうのだが、そのたびにビリビリと感電するのだ。
 
感電する感覚も異様なものだが、それ以上に気になったのは、感電したときに自分の体から焼けたようなにおいがしてくることだった。
 
それでも次第に感電にも慣れてくるものだ。
だんだん感電自体が快感に変わっていくのが怖くなって、そのバイトもついに行かなくなった。
ギャンブルをやると人の本性が出るという。
 
普段真面目で温厚に見えるヤツが、麻雀となると途端に豹変し、本性をむき出しにしたりするから、結構面白い。
 
ある日、また山口下宿で麻雀をやっていた。
若い頃は、人を傷つけることなど気にするヤツは少なかったので、皆、自分のアガリとなると、何かしら「どうだ!」とばかりのコメントを言うことが多かった。
 
麻雀の待ちでいうと、平和(ピンフ)三色(サンシキ)などは、高目と安目(点数が高いアガリと安いほうのアガリ)が極端に点数に差があって、特にリーチをかけた場合などは運任せなので、高目が出ると素直に嬉しいものである。
 
その日、私は高目が平和三色のリーチをかけていた。
 
で、高目が出たのだ。
裏ドラも乗って、ハネ満だ。
 
いつも通り、「高目!」と叫んで、どうだ、とばかりに牌を倒した。
 
すると、振り込んだ普段おとなしい後輩が、目をむいて突っかかってきた。
 
「バカめ、とは何ですか。バカめとは!」
 
普段おとなしいヤツに限って、こういう時にわけのわからないキレかたをするから、ギャンブルとは恐ろしいものだ。
◇天和
 
麻雀には役満という最高役があるが、その中でも滅多にできないといわれているのが「天和(テンホー)」だ。
天和とは、親が配牌(ハイパイ)でいきなり上がっているもので、一番安い上がり役が1,000点のところ、天和は48倍の48,000点だ。
「天和をやると死ぬ」ともいわれており、雀士の憧れの役である。
 
ある日、麻雀をやり始めたばかりの後輩である伊藤君を入れて卓を囲んでいたときのことだ。
親の私は、配牌から捨てる牌を探していた。
麻雀というものは、親が一牌切らないとゲームが始まらない。
だが、いくら探しても捨てるモノはなかった。
 
「天和だ!!」
 
一同、始めて見る天和に大歓声を上げた。
おそらく生きているうちに天和を見るのは、これが最後だろう。
みんな大興奮だ。
 
ところが伊藤君だけはきょとんとしている。
そして彼が発した言葉は・・・
 
「それって高いの?」
 
一同、ひっくり返った。
大学時代は、とにかく麻雀とバイトばかりやっていた。
そればっかりやっていたので、いろいろな物語が生まれた。
 
◇山口下宿、7人総当たり戦
 
当初、山口下宿のみんなが麻雀をやるわけではなかったが、一人残らず強引に誘い込んだ。
そしてていねいに、手取り足取り教えてあげた。
太らせて食べようとしているとは知らずに、皆喜んで麻雀を覚えてくれた。
 
私の発案で、山口下宿の7人で総当たり戦をやったことがある。
すべての組み合わせを計算すると、
 7C4=7!/(4!×3!)=35試合となる。
 
最後の方になるとゼミで忙しいだの、部活があるだのいう人間が出てきて人集めが大変だったが、なんとか全試合をこなした。
35試合を達成して、喜んでいたのは私だけだったかもしれない。
鎌倉街道が多摩川を渡る橋が関戸橋。
その関戸橋のたもとに当時あったのが、さくらサンリバーというビルだ。
そう、サクラショウリなど数多くの名馬を輩出したサクラコマースが経営するビルだ。
 
さくらサンリバーには、焼肉のたれで有名な「モランボン」という焼肉屋とボウリング場があったが、そのボウリング場の中にゲームセンターがあった。
 
さて本題に入るが、山口下宿の友達がこのゲームセンターのバイトを見つけてきた。
仕事は、ゲームセンターの見張り番。
時給500円で、一見して特に魅力がないように見えたが、ところがどっこい、これが実に楽しいバイトだった。
 
ボウリング場というものは、平日の昼間はほとんどお客さんは来ない。
だからゲームセンターもガラガラ。
そうすると仕事は何もない。
ということで、出勤してから帰るまで、延々とゲームをして遊べるのだ。
 
ゲーム代金はというと、すべてのゲーム機の鍵を持っているので、いくらでもCREDITを増やすことができた。
つまりゲーム代はタダだった。
 
時給500円をもらって、タダでありとあらゆるゲームで遊ぶことができたのだ。
あまりにも楽で、楽しいバイトなので、このバイトは山口下宿の中で奪い合いになった。
 
俺にやらせろ!
いや、お前は今月はやりすぎだ!
そんなことはない、俺の番だ!・・・・
 
さて、このゲームセンターはエスコ貿易という会社が経営していたが、エスコ貿易はその後セガに買収された。
一方で、私は大学卒業後CSKに入社したのだが、その後CSKはセガの親会社になった。
そしてその時私の上司になった人は、エスコ貿易の元社長だった。
 
縁は異なもの、味なものである。
大学入学時は土地勘がないまま、大学に一番近い、多摩動物公園から徒歩10分のところにある田倉荘を選んで住んではみたが、そこはあまりにも不便すぎた。
3畳の部屋もあまりに粗末で、貧しい暮らしにも限度があった。
 
すこしだけバイトでお金が貯まったので、思い切って大学2年の春から引越しをすることにした。
 
今度は東京都府中市、京王線中河原駅徒歩3分にある、山口下宿だ。
 
山口下宿は、山口さん宅の2階にあった。
家賃は13,000円。
3畳から出世して、こんどは4畳半!
あこがれの4畳半!
 
山口さん宅の2階には同じような4畳半が7部屋あり、トイレは共同、流しも共同、ガスコンロも共同、風呂はなし、これが山口下宿だった。
 
中河原は、多摩動物公園周辺に比べるとはるかに都会だった。
動物園の獣達の遠吠えも聞こえないし、まむしも出そうになかった。
駅前にはスーパーなどもあって、買い物にも事欠かなかった。
 
やっと東京らしい生活が始まった。
三重の田舎から上京した当初は、軽いホームシックにかかった。
少しずつ田倉荘の学生達と友達になっていったが、司法試験の勉強も断念したし、バイトもそんなに頻繁にあるわけでもなかったので、淋しさを何かで紛らわすというか、何かで暇をつぶす必要があった。
 
で、麻雀である。
 
当初コテンパンにやられた。
高校の頃やっていた麻雀は、あれは麻雀ではなかった。
とにかく「カモ」にされたわけだ。
 
これではいけない、と奮起して、むきになって麻雀を研究した。
というか、麻雀をやりまくった。
 
大学に行く目的は、麻雀の面子集め。
田倉荘に帰ったら、また麻雀。
起きたら麻雀、寝ないで麻雀。
 
私の大学生活はこうして大きく道を踏み外し、完全に方向性を見失っていった。
田倉荘の周囲には何もなく、とにかく徒歩だけでは不便だったので、なけなしのお金をはたいて中古自転車を買うことにした。
 
今なら新品自転車でも中国製なら1万円くらいで買えるが、当時は新品はそんなに安くはなかった。
たった4万円の仕送りと時給500円のバイトでは、中古しか買えなかったのだ。
 
いろいろ探し回って、友達が住んでいた府中市の自転車屋でやっと中古自転車を見つけた。
一台12,000円だった。
一応変速機付きで、まあまあの買い物だった。
 
ある日、友達のところへ自転車で遊びに行った帰りに、突然警察官に呼び止められた。
自転車を止めて、盗難物かを調べる・・・
よくある話だ。
 
何もやましいところはないので、自信たっぷりに自転車を見せた。
ところが、防犯登録番号をチェックされて・・・
 
「盗難自転車だ。おまえ、盗んだな!」
 
そのまま府中警察まで連れて行かれた。
濡れ衣である。
 
完全に泥棒扱いだった。
警官は全く聞く耳を持ってくれなかった。
認めるわけにはいかないので数十分抵抗して、やっと「じゃあ、その自転車屋に連れて行け」ということになった。
 
そして、めでたく冤罪を晴らしたのだ。
 
あの自転車屋、警官の前では白々しかった。
わざと盗難自転車を売りつけたくせに。

時給500円だと、8時間働いても4,000円。
丸一日潰して働いてもこれだけの収入にしかならないのはキツかった。
せっかく一日働いても、飲み会に行くだけでその稼ぎが吹っ飛んだ。

 

何か他にいいバイトはないものか・・・まったく厚みを増さない財布を見つめながら悶々としていると、田倉荘の友達がいいバイトを見つけてきた。
 

多摩動物園のえさを刈り取るバイトだ。
時給はなんと1,000円!

 

朝5時に田倉荘まで車が迎えに来て、昭島の牧草地まで連れて行かれ、そこで2時間程度働くというものだ。草刈り機で刈り取られた「動物用の草」を束ねて、トラックに積み込む肉体労働だった。

時給1,000円に釣られて、田倉荘の貧乏学生が数人集り、このバイトを始めた。


しかしやってみると問題点があった。
 

まず、移動に往復で2時間もかかることだ。
もうひとつは、全身が衣服と共にドロドロに汚れ、かつ強烈な「草の臭い」がしみついてしまうことだ。

 

朝早く起きて、汚くて、たいへんな重労働で、移動時間を含めると4時間かかって、バイト料は2,000円だけ。
結局、時給500円のバイトと変わりがないということにあとで気づいた。

 

しかし楽しいこともあった。
たまに開園前の誰もいない、朝の多摩動物園に入れたのだ。
普段は徒歩でしか入れない園内を、草を積んだトラックで回り、キリンや象、サイなどを間近に見ながらえさを配ることができたのだ。


朝の園内は、孔雀が羽を広げて走り回ったり、象が腹をすかせて暴れ回っていたり、普段は決して見ることができない光景が広がっていた。

もう少しいいバイトはないかと探したところ、京王線高幡不動駅前にある、すし屋のバイトが見つかった。
 
時給500円だが、「賄い」つきだった。
夕食として、無料であこがれの江戸前寿司が食べられるのだ。
当時はもちろん寿司など食うお金はなかったので、これはたいへん魅力的だった。
 
というわけで、高幡寿司でバイトを始めた。
 
やることは皿洗い程度なのだが、店を閉めたあと、たまにいくら・うになどの高級ネタを食べさせてもらえた時は、とても幸せな思いがした。
普段劣悪な食生活をしていた大学時代の私が江戸前寿司を食べられたのは、唯一この時だけだった。
 
それから高幡寿司のオーナーは、学生の私に対して、たまに出前用の軽自動車を貸してくれた。
車の免許を取って間もなかった私は、とにかく車を運転したくてしかたがなかったのでこれは嬉しかった。
 
私が車を借りて田倉荘に乗って帰った時は、田倉荘の貧乏学生達は歓喜した。
この時とばかりに「車で」夜の新宿に繰り出し、セレブ気分で大いに盛り上がったものだ。
 
「高幡寿司」と大きく書いてある軽自動車ではあったが。
実家からの仕送りが少なく、生活が思いっきり苦しかったのでアルバイト先を探した。
 
ところが住んでいた日野市周辺にはいいアルバイトがなかった。
知り合いが時給350円のバイトでこき使われているという噂を聞き、それよりはマシだということで、泣く泣く時給500円のアルバイトを始めた。
 
バイト先は田倉荘から徒歩10分のところにある、かの有名な多摩動物公園だ。
動物園のバイトというといかにも楽しそうに聞こえるが、最初はただの皿洗いだった。
動物園だからと言って、皿洗いに動物が絡むわけではなかった。
 
しばらく我慢して働いていると、ぬいぐるみ売り場に移動することができた。
今度は動物絡みだ。
実物ではなかったが少しばかりは動物園のバイトらしくなった。
 
ところが、ぬいぐるみ売りは晴れた日は炎天下で8時間も立ち続けなければならない。
正直、時給500円では割に合わなかった。
 
動物園でアルバイトしてるんだ・・・
ワー、いいね!
私、動物好きなの!
 
と合コンネタには良かったが、単にそれだけの価値しかなかった。
弁護士になろうと敢えて上京し中央大学を選んだわけだが、考えが甘すぎた。
 
というのも、法律の授業は想像以上に面白くないものだったからだ。
高校生の頃、初めて日本国憲法の前文を読んで感じたあの感動と高揚感はどこに行ってしまったのだろうか?
 
まず、法律の条文が日本語のくせに、理解できないほど難解すぎた。
そして判例(裁判所が示した法律的判断)は法律よりもさらに輪をかけて難かしかった。
法学とはそれらを解釈したり応用したりするものであったが、私にとっては全く興味の持てない、ただ難解なだけの学問と映った。
 
昔から社会科が嫌いだった私には、やはり法律の勉強は向いていなかった。
ましてや勉強があまり好きではなかったから、弁護士になるために一日10時間の勉強を7年も続けるなんてつらいことは、とても私にはできそうになかった。
 
というわけで、私は大学入学後1ヶ月も経たないうちに司法試験の勉強を断念した。
冤罪事件を救うために弁護士になるという崇高な理想を掲げて上京した私であったが、大学で勉強する目的自体を見失ってしまった。
 
そして私の大学生活は、一転して勉学の道から堕落の道へと転がり落ち始めた。
これが結果的には、起業そして現在の姿に結びつくわけだが。
弁護士になるという崇高な理想を掲げて中央大学に入学したので、早速弁護士になるための方法を検討した。
 
弁護士になるためには司法試験に受からなければならない。
司法試験というと、当時も今も国家試験の中で最難関である。
 
聞いたところによると、真法会や郁法会などの団体に所属すると合格率が高くなるらしかった。
一人で黙々と勉強するよりも、法律家を目指す優秀な学生同士が集って勉強するほうがいいというのだ。
 
だが、司法試験の勉強をするためのこれらの団体に入会すること自体が難関だった。
司法試験の勉強をかなりやってからでないと、司法試験受験の切符さえももらえないというわけだ。
 
また、司法試験に合格するためには、一日10時間の勉強を7年間は続けなければならないという。
もちろん、大学在学中に受かることは稀で、大多数の人が大学卒業後も数年間勉強を続けた上でやっと合格する。
中には、30歳を超えてやっと合格する人もいるし、10年以上勉強をしたあげく合格せずに断念する人もいると聞いて、正直ビビってしまった。
 
なぜなら単純な話、私は勉強が好きではなかったからだ。
大学生になって初めて借りた部屋は、風呂トイレなしの3畳部屋だった。
共同トイレは部屋の外にあるが、周辺に銭湯がないので共同風呂が敷地内についていた。
といっても、小さな風呂で一人一人順番に入るというものだったが。
家賃は風呂代込みで月19,000円。
 
当時、3人兄弟が全員大学生だったので、私に回ってくる仕送りはわずか4万円だった。
家賃を払ってしまえば残りは21,000円しかない。
だから必要最小限のもの以外は何も買えなかった。
家電製品で買えたのは三辺50cmくらいの小型冷蔵庫だけ。
 
この田倉荘には、結構よく似た境遇の貧乏学生が多かった。
親しくなった友達の中でテレビを持っているのは松山君だけだった。
14インチの白黒テレビだったが。
 
フィーリングカップル5vs5などの人気番組があるときは、下宿のみんなが松山君の3畳部屋に集って仲良く白黒テレビを見た。
ボロボロの下宿であったが家賃が安かったので、田倉荘には全国からよりすぐりの貧乏学生が集まり、奇妙な連帯感を醸し出していた。
まず驚いたのは、田倉荘のオヤジが会話の語尾に「だっぺ」をつけることだった。
東京でもこのあたりの言葉は、標準語とは少し違っていた。
 
生活もかなり不便だった。
 
今は多摩モノレールが開通し、周辺もどんどん開発されているようだが当時はひどかった。
まず、食料品を買える店が近くになかった。
歩いて2分くらいのところに店があったが、1年のうち半分は休みで、さらに夕方5時になると閉まってしまう。
 
二番目に近いのが大学生協だったが、生鮮食料品が売っていない。
三番目に近いのは徒歩15分のところのセブンイレブン。
だが当時のセブンイレブンには生鮮食料品は売っていなかった。
 
というわけで、まともな食料品を買うには徒歩30分以上かかる高幡不動まで行くしかなかった。
電車で行くにしても、一番近い多摩動物公園駅まで徒歩10分歩き、それから電車に乗って高幡不動まで行かなければならなかった。
我々は、しかたなく1週間に一度、高幡不動の京王ストアまで連れ立って買出しにでかけた。
 
また、今では伝説になっているらしいが、当時下宿近くの山林には
 「きけん はいるな」
 「まむしもでるよ」
という看板が本当に立っていて、学生をビビらせていた。
 
それから、東京とはいえ山の方なので、冬は雪が積もると春まで消えなかった。
夜になると、もやがあたり一面を覆うことも多かった。
さらに、近くの多摩動物公園から獣たちの遠吠えがこだましていた。
 
一言でいうと、まるで過疎地帯だった。
田舎から上京して夢に見た都会生活・・・
洗練された都会で学生生活をエンジョイ・・・
 
といきたいところだが、そううまくはいかなかった。
 
中央大学多摩校舎は完成して2年目。
キャンパスはとても広く、建物も真っ白でまばゆいばかり。
ただ、なんとしたことか出身地の三重県亀山市よりもはるかにド田舎にあった。
 
住所は東京都八王子市だが、とても市と言えるような場所ではなかった。
多摩動物公園の近くの山林を開拓した、本当に何もない山の中に、秘密基地のような大学校舎が存在していた。
 
私は土地勘がなく、あたりの事情が全くわからなかったので、とにかく一番大学から近いところを下宿先として選んだ。
 
学校の門から徒歩5分のところの田倉荘だ。
田倉荘は日野市程久保6丁目にあり、周辺には文明を感じさせるものは何もなかった。
まさに自分の田舎よりもド田舎だった。
 
しかし自分は弁護士を目指して司法試験の勉強をするんだから、大学が近いほうがいいだろう。
そう思って下宿先を決めたのだが、その田倉荘には行く手をはばむ魔物がすんでいた。
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