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受験勉強をしていたある日、私の目にある悲惨な冤罪事件が目にとまった。
冤罪とは、犯していない罪を着せられることで、無実であるのに犯罪者として扱われてしまうことをいう。

私の目に留まったのは加藤老事件だった。
加藤新一(当時24歳)は知人の供述により犯人とされ服役、62年もの年月を犯罪者として扱われて過ごしたが、十数年に渡る再審請求の上で無罪を勝ち取った。

参考:こんなにある20世紀の冤罪事件全く身に覚えのない事件で犯人にされ、一生を台無しにしてしまう。
こんなことが許されていいのだろうのか。
冤罪は本人の人生も奪うが、家族や親族さえも犯罪者の親戚として扱われ、村八分など悲惨な目にあってしまう。
 
私はこの事件を知ったことで、弁護士を目指そうと考えた。
いかなる場合においても、人権は尊重されるべきだ。
ましてや、人の人生を破滅させてしまう冤罪はあってはならない。
弁護士になって悲惨な冤罪事件をなくそう。
 
そう決意し、私は進路を法学部に決めた。
 
しかし、法学部の受験はやはり社会科が得意でないと不利だった。
ほとんどの私立大学法学部は社会が必須科目だったが、それでも国語・英語・数学で受験できる大学がいくつかあったので、それを3校選んだ。
関西が好きだったので本当は関西の大学に行きたかったのだが、私立の第一志望は司法試験合格者が多い中央大学法学部にした。
東京だがしかたがない。
 
国立は7教科必須で社会科から逃れようがなかったので、元の希望通り関西の大学を選んだ。
 
試験が始まった。
国立大学入試は、ちょうど私の受験の年から共通一次試験が導入されていた。
誰も経験がない共通一次だったが、なんとか乗り切った。
だが、日本史の成績が悪すぎた。
46点。
偏差値も最悪だった。
 
これが志望校の選択肢を決定的に狭めてしまった。
関西地区で受かりそうな国立大学法学部がなくなってしまったのだ。
やむなく私は関西の某国立大学の経済学部を受験した。
 
結果、運良く中央大学法学部と関西の私立大学法学部、それと関西の国立大学経済学部に合格できた。
 
経済的に言えば選択肢は国立大学しかなかった。
だが、どうしても法学部に行きたかった。
弁護士になって悲惨な冤罪事件をなくしたい、当時はそう強く思って、両親にわがままを言って中央大学に進学することになった。
 
そして昭和54年(1979年)4月、私は大いなる希望をもって上京し、大学生活がスタートした。
運動部にも入らず、私服通学の自由な校風をエンジョイしていた私にも、大学進学の時期がやってきた。
 
当初は第一志望は関西の国立、滑り止めに関西の私立と決めていた。
関西地方の端くれに位置する三重県には名古屋と大阪の両方の電波が届く。
お笑いが好きだった私は大阪のテレビ番組にチャンネルを合わせて、よく吉本新喜劇や漫才などを見ていた。
ラジオは笑福亭鶴光の「オールナイトニッポン」と笑福亭鶴瓶の「ぬかるみの世界」のファンで、とにかく関西のお笑いが大好きだった。
とにかくそういうノリで大阪の大学を目指していた。
 
私は数学・物理・化学が得意で、どうみても理系だったのだが、色覚的事情があって文系にせざるを得なかった。
ところが私は丸暗記が不得意。
なかでも特に暗記科目である日本史・世界史の成績が悪かった。
国立受験は7教科だったので国語・数学・英語・物理・化学・公民・日本史を選んだのだが、私立受験は文系志望にも関わらず国語・英語・数学で受験できる大学を選んだ。
 
浪人は許されなかった。
当時兄は二人とも大学生で、私が大学に入ると子供3人が大学生になる。
とても浪人できる経済状態ではなく、現役合格が必須だった。
 
そして受験勉強をしていたある日、とある新聞記事が私の目にとまり、これがきっかけで私の進路は大きく変わることになる。
◇クラシックギター部
 
クラシックギター部と言うと、とてもりっぱな部活動のように聞こえるかもしれない。
しかし何のことはない。
クラシックとは名ばかりで、音楽室にあるクラシックギター片手に、みんなでフォークソングを歌って遊んでいた。
 
◇アマチュア無線技士
 
高1の時、同級生の竹田君が「アマチュア無線の免許をいっしょに取ろう」と言うので付き合うことにした。
無線のことは何も知らなかったのだが、名古屋までの1時間強の車中で竹田君に要点だけを教えてもらって受験した。
そうしたらなんと合格した。
アマチュア無線技士電話級、りっぱな国家資格だ。
 
しかし合格後現在まで、一度もアマチュア無線というものに触ったことがない・・・

 
◇私服通学
 
津高校には制服がなかった。
自由な校風は、県内でも群を抜いていたと思う。
さらに私は運動部に入っていなかったので、放課後はさまざまな誘惑が待っていた。
私服なので束縛するものは一切なかった。
 
見つかれば退学になりかねないようなことを、多くの生徒が当然のようにやっていた。
それでも要領がよかったのか運がよかったのか、お咎めを受けることもなく、私は自由な高校生活を謳歌した。
自宅から駅まで7キロもあったので高校になっても自転車通学をしていたのだが、免許を取ればバイク通学が許されていた。
だから同様な境遇の人たちは、16歳になるとすぐに原付(50cc)の免許を取り、原付バイク通学に切り替えるのが常識だった。
 
だが私は違う道を選んだ。
ゲンチャリなんてかったるくて乗ってられない・・・
高2の夏休みまで待って、自動二輪免許を一発試験場に取りに行くことにした。
 
ド田舎なので自宅の周囲は柵のない運転練習場みたいなものだった。
だから自動二輪の運転技術には自信があった。
高いお金を払って教習所に行かなくても免許は取れる、と考えて三重県にひとつしかない運転免許試験場の一発試験に挑んだのだ。
 
高2夏休みが始まった。
早速、中型自動二輪(400cc)の一発実技試験を受験した。
1回目は・・・落ちた。
2回目も・・・落ちた。
 
運転技術には自信があったので受からないわけがない。
だが、3回目も、4回目も落ちた。
なぜ受からないのかさっぱりわからない。
5回目も、6回目もダメ。
 
そしてとうとう夏休み最後の一発試験。
結果は・・・また落ちた。
不合格回数はすでに13回を数えていた。
 
さすがに平日高校をサボって免許を取るわけにもいかないので、自動二輪免許取得は断念せざるを得なくなった。
 
自動二輪免許を取ると周囲に豪語した関係上、今さら原付免許を取るわけにもいかず、高校卒業まで片道7キロ、アップダウンがあるつらい自転車通学を続けるハメになってしまった。
地歴部とは何か?
 
究極のオタクといわれてもしかたがない。
地理と歴史のクラブ活動である。
 
何をするかというと、
 ・古墳などの遺跡めぐり
 ・遺跡発掘
 ・歴史的建造物めぐり などだ。
 
とても私には似つかわしくない活動を、高校時代はやっていた。
 
出身地の三重県とその周辺には、実にたくさんの遺跡・古墳や歴史的建造物が散在している。
例えば、実家のすぐ近くには日本武尊(やまとたけるのみこと)の御陵がある。
ヤマトタケルはこの地で
「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣  山ごもれる やまとし うるわし」
と詠み、力尽きたと日本最古の歴史書である古事記に記されている。
 
そのほかにも、実家の周辺には数多くの古墳があった。
古墳は永い時間を経て、林となり、畑となり、普段はそうとは気づかない。
だが、詳細な地図や記録を紐解いてみると、確かにこんもりとしていて、あたりを探すと鏃(やじり)や土器の破片などがよく見つかった。
 
つらかったのは、遺跡発掘調査の手伝いだ。
地歴部の活動費を捻出するため、無理矢理やらされた。
県の教育委員会からアルバイトの仕事をもらうのだが、遺跡を慎重に慎重に手で発掘していく作業で、長時間、中腰になりながらの作業なので、腰にきた。
また単調な作業で、全くおもしろくなかった。
 
そんな中でも、楽しかったのは遺跡めぐりや歴史的建造物めぐりだ。
明日香村など、奈良の著名遺跡や周辺の遺跡を訪ねたりして、悠久の時を肌で感じ、太古の日本に想いを馳せたものだ。
高田中学から三重県立津高等学校(通称:津高)に進学した。
私立中学→公立高校 という進学は妙な印象があると思うが、当時の三重県は教育環境が整っておらず、このルートがお決まりのコースだった。
 
津高は県内の高校では珍しく制服がなく、自由な校風だった。
学校が生徒を信用してくれていたわけだが、私服通学は私にさまざまな誘惑を突きつけることになる。
 
津高は近鉄津新町駅から徒歩10分のところにあった。
中学のときよりもさらに遠距離通学になり、それまで乗っていた8時10分発亀山駅の汽車では間に合わなくなり、1時間早い朝7時10分発の汽車で通学することになった。
 
この通学は中学の頃よりさらにきつくなった。
冬は真っ暗なうちから自転車に乗らなければならない。
今は地球温暖化で雪も滅多に降らないが、当時はよく雪が降った。
真っ暗な雪道を、ボタン雪を全身に浴びながら自転車で7キロを走るなど、都会暮らしの今では到底考えられない。
 
通学に時間がかかるようになった、大学受験が控えている、などと理由をつけて高校からは運動部には入らなかった。
代わりに、クラシックギター部と地歴部に入部し、軟弱な高校時代がスタートした。
特に信心深いわけではないのだが、入学した高田中学は仏教系の学校だった。

高田中学高田学苑に属しており、真宗高田派本山専修寺(しんしゅうたかだはほんざんせんじゅじ、通称:高田本山)による経営だ。
専修寺の宗祖は浄土真宗の開祖、親鸞聖人(しんらんしょうにん)である。
 
仏教系の学校なので、国語・英語・数学などと同列に「仏教」という科目があった。
仏教といっても、お経を覚えるわけではなく、仏陀の生誕や親鸞聖人の物語を旧字体の本を使って勉強するのだ。
 
お陰で旧字体の漢字が得意になった。
旧字体が得意でも普段は全くメリットはないのだが、仕事などで香港や台湾に行った時だけは役に立つ。
香港、台湾では今でも旧字体漢字を使っているからだ。
高田中学のある一身田駅までは亀山駅から紀勢本線に乗って約15分。
紀勢線は単線で、今も電化されていない。
 
中学の頃はその紀勢線に一日一本、蒸気機関車が走っていた。
たまに学校が早く終わり、野球部の練習もないときは、14時の蒸気機関車に乗ることができた。
蒸気機関車はC58型。
シゴハチと呼ばれていた。
今もあの石炭のにおいとシゴハチの雄姿を思い出す。
 
亀山駅と下庄駅の間には短いトンネルがある。
油断して窓を開けたままトンネルに入ると、蒸気機関車の煤煙で客車内が大変なことになったものだ。
 
シゴハチは残念ながら中学2年の頃に姿を消した。
今思えば、蒸気機関車で通学できたなんて夢のような話だ。
通学は過酷だった。
家から亀山駅までは、アップダウンのある7キロを自転車をこがなければならない。
亀山駅からの汽車は1時間に1本しかなく、8時10分の汽車に乗らないと間に合わない。
雨の日も風の日も雪の日も、自転車で通った。
アップダウンがある7キロを毎日全速力で走るので、たびたび汽車の中でめまいを起こして気絶した。
 
自転車で脇目もふらずに走りまくるので、毎年のように交通事故に遭った。
中でもひどかったのは、町中で路上駐車している車の横を通り抜けようとした時だ。
その瞬間、車のドアが開いたのだ。
 
激突、転倒した。
自転車はぐにゃぐにゃに曲がってしまった。
でも幸い軽い怪我で済んだ。
 
度重なる交通事故にも懲りずに、この自転車通学は高校卒業まで6年間続いた。
のちには自転車でパイクを追い越せるほど筋力がついた。
こりゃ競輪選手になれるな、と本気で思っていた。
意外や意外、高田中学には合格できた。
 
中学といえば、部活動!と考えた。
で、野球部に入部した。
特に野球が得意だったわけではないが、私立の学校は野球が弱そうで、練習が楽だと思って一念発起、入部してみた。
 
しかし現実は甘くなかった。
野球部には鬼の先輩がいたのだ。
 
当時私は腕立て伏せもできないくらい筋力がなかったのだが、なんとその鬼は私に無理やり腕立てを30回もやらせた。
腕立て伏せができないというのに30回やらされるというシゴキがどんなにヒドイか、想像できますか!
 
毎日筋肉痛というか、腕が動かなくなった。
 
また私は逆上がりができなかったのだが、そんな私に鬼の先輩は「鉄棒3分ぶら下がり」を命じた。
3分間ぶらさがって持ちこたえないと、ケツバット(バットで尻を強打されること)が飛んでくるので、死ぬ思いで3分間耐えた。
 
鬼の先輩はさまざまな方法で、か弱い私を徹底的にイジメ抜き、鍛えてくれた。
その鬼のおかげで、私はたくましい少年に成長していった。
小学6年の冬のことだ。
両親から私立の高田中学校を受験しないかと言われた。
 
兄が2人とも地元の市立中学に進学しており、また家が貧乏だったので、中学校は授業料のかからない市立に行くものとそれまでは思っていた。
地元の市立中学に通うなら自転車で10分もかからないが、高田中学校は三重県の県庁所在地である津市にあるので、駅まで河超え丘超え自転車で7キロ、さらに1時間に1本しかない汽車に15分乗って通うことになる。
ド田舎育ちの私からすれば高田中学は憧れでもあり、それまですごしてきた狭い田舎社会からの脱皮でもあった。
 
両親の強い勧めと期待もあり、にわかに使命感を覚えて、受験勉強を始めた。
だが受験勉強とはいっても、自宅周辺には塾などひとつもなかった。
全国私立中学受験問題集を一冊買ってもらって延々と解き続ける、これが唯一の勉強方法だった。
 
初めて目にする灘中学とかラサールなどの有名校の試験問題は、問題の意味さえもわからないほど難解なものばかりだった。
が、他に勉強方法もわからないので、友達との遊びをきっぱりと断って約2ヶ月間受験勉強に集中した。
 
受験勉強の期間が短いこともあって、受験の日が近づいても相変わらず受験問題集はほとんど解けなかった。
それまで田舎の小さい小学校ではトップの成績だったが、井の中の蛙だった私は、世間の学力レベルがはるかに高いところにあることを初めて思い知った。
 
とにかくやるだけのことはやったが、全く合格する自信はなかった。
三重県といえば、伊勢海老や鮑などの海産物のイメージがあり、海の近くという印象らしいが、生まれた亀山市には海はなかった。
 
我が家は海岸から20キロほど離れており、小学校5年のときに学校にプールができるまではほとんど水泳をする機会がなく、泳げなかった。
父が夫婦岩で有名な二見ヶ浦出身だったので、たまにいく海水浴で平泳ぎを教えてくれたが、海は波があり、危険すぎて泳ぎの練習にはならなかった。
 
というわけで、小学校にプールができたときはうれしくてうれしくて、夏休みには毎日プールに通った。
当時はエアコンというものは普通の家にはなかったので、夏はとにかく暑く、プールにでも行かないとたまらいという理由もあったが、とにかく毎日プールに通ってなんとか平泳ぎができるようになった。
 
小学5年の夏休みの最後の日、8月31日のことだ。
今日で楽しいプールも終わり。
夏休み中、一日も欠かさずプールに通った成果を示そうと、平泳ぎ500メートルに挑戦をした。
もちろん休憩なしの500メートルだ。
1時間以上かかっただろうか、プールができるまでは泳げなかった私は、夏の終わりには平泳ぎで500メートルを泳ぎきることができるようになっていた。
 
今ではこんなことはめずらしくもなんともないが、当時私の小学校では画期的な出来事だった。
プールができたばかりの田舎の小学校では、500メートル泳げる生徒は他にはいなかったのだ。
1971年に今の実家がある場所に引っ越した。
それまでは林の中にある小さな長屋の家に暮らしていた。
 
私が少年の頃の我が家はとても貧しく、ぎりぎりの生活をしていた。
子供心に「ウチは貧乏なんだ」と認識して暮らしていたと思う。
小学生の頃は、近所の友達がアイスクリームやチョコレートなどを買い食いしていても、私だけは指をくわえて見ていた。
小遣いがなくて買えなかったのだ。
 
チョコレートなんぞは高嶺の花だった。
あまりにもチョコレートに対する憧れが強くて、お菓子の家の夢をよく見たものだ。
いつかはチョコレートを腹いっぱい食べてみたいと本気で思っていた。
今でもたまに気が狂ったようにチョコを食べてしまうのは、この貧乏な幼児体験のせいだと思う。
 
また、両親が郵便局に勤めていたこともあって、無駄遣いせず貯金をするようにしつけられた。
小学校1年生の時には、お年玉を合計で1700円、2年の時には1900円もらったのを覚えているが、1円も使わずに全部郵便局の定額貯金に預けて、それが満期になるまで10年間預けた。
今から思えばあまりにも小さい金額で、貯蓄としての成果はほとんどなかったが、無駄遣いをせずに我慢する習慣が身についたと思う。
 
サラリーマン時代にこつこつと貯金をして、独立資金1000万円を貯めることができたのも、両親のこうした教育のおかげだと思っている。
子供の頃住んでいた実家の周りはすさまじい田舎だった。
三重県亀山市が田舎だったというより、自分の家の周辺がとても辺鄙な場所だった。
 
まず、公共交通機関がなかった。
バスが生まれた頃は走っていたが、利用者が少なくてその後廃止されたらしい。
バスが開通するという話はあると思うが、廃止されるというのはかなりな田舎の証明ではないだろうか。
そんな山奥というわけでもなかったのだが、公共交通機関がなかったので小さい頃の行動範囲はごく限られた狭い世界だけだった。
いつまでも世間知らずの田舎者が抜けきらないのは、そんな環境で育った影響だと思う。
 
というわけで、とにかく自然の中で育った。
春はつくし、わらび、ふきなどの山菜がいたるところで採れた。
つくしやわらびはいまでも大好物である。
 
夏は川で水浴びをしたり、魚釣りやザリガニ釣りをした。
近所の森を探検したり、森の中に秘密基地を作って遊んだりもした。
また母親の実家が農家だったので初夏には田植えを、秋には稲刈りも手伝った。
 
そのほか、アケビを取って食べたり、秋には栗がいくらでも採れた。
冬は今とは違って雪が積もることがあったので、雪の時は当然雪合戦、雪だるま、かまくら作り。
 
正月は、凧揚げ、こま回しに没頭した。
とにかくそんな原始的な遊びしか、生まれた田舎には存在していなかった。
幼稚園を卒業して、亀山市立川崎小学校に入学した。
 
ド田舎なので、クラスは1学年1クラスしかなかった。
1年の2学期には学級委員になった。
本当は1学期からなりたかったのだが、クラスの投票で正人君に負けたのだ。
それから6年になって2クラスに分かれるまで、毎年1学期の学級委員の投票で正人君に負け続けた。
正人君には激しいライバル心を燃やしていたのだが、一度も勝つことはできなかった。
 
近所には同級生の拓也君がいた。
昭和46年に拓也君の家の隣に父が土地を買い、念願の一軒家を立てたので、拓也君とは隣同士になった。
いつも行動を共にし、無二の親友となった。
ちなみにこの一軒家は今も私の実家として残っている。
 
拓也君のお父さんは教師だった。
非常に教育熱心な家庭で、結構世話になった。
5年くらいからだったと思うが、拓也君のお父さんの指導により、拓也君と共に毎朝ラジオ体操をしてから800メートルを走ることになった。
毎日とてもつらかった記憶があるが、毎日のトレーニングで長距離走が得意になった。
今健康でいられるのは、拓也君のお父さんのお陰でもあると思う。
 
5年か6年の時の学芸会では、劇の脚本を書き、演出もやった。
先生にも結構受けていたと記憶している。
作家の才能があるのでは、と思ったものだ。
 
6年の時は児童会長になった。この時も、1期目は選挙で正人君に負けて、2期目の当選だった。
小学校時代は常に2番手だった。
正人君には人気で負けていた。
人気がなかなか取れないところが、今も自分の弱点だと自覚している。
6歳の時、交通事故で1ヶ月入院した。
 
兄の後を追いかけて通りに走り出て、バイクにはねられたのだ。
そのバイクはそのまま走り去ってしまった。
ひき逃げである。
 
救急車で病院に運ばれた。
頭骸骨にヒビが入るケガを負った。
その時、私はなぜだか「意識不明」を演じてしまった。
 
今思えばとんでもないことだが、家族や病院の人がものすごく心配するので、ついつい調子に乗って意識がないように演じたのだ。
でも数時間でその演技も終わった。
なぜなら、おしっこがしたくなったからだ。
アホらし・・・
 
それでも、意識不明を演じたことによりこの交通事故は重大事故として扱われ、「彰ちゃん(6つ)意識不明の重体」と地元新聞に載った。
早くもこの時から、目立つことに快感を覚えるようになった。
 
入院している時、アルファベットや簡単な英単語を学ぶ本をもらった。
ほかにやることもなかったので、その本の内容を夢中になって覚えた。
当時の亀山では、幼稚園児が英語の勉強をすることはあり得ない話だったので、地元で「英語が話せる幼稚園児がいる」と有名になった。
アルファベットや英単語を少し覚えただけで、英語が話せたわけでは決してなかったが、田舎というのはそんなものだ。
3人兄弟、男ばっかりの三男として生まれた。
長男とは5つ違い、次男とは2つ違いで両親が共働きだったので、子供の頃は兄達にこっぴどくやられた。
 
小さい頃は2歳、5歳違いといってもかなりの体格差だ。
だからけんかになったら、到底兄達にはかなわなかった。
親が働いている間にけんかになると、全く勝ち目はなかった。
押さえつけられたりした時は全く抵抗ができなかった。
幼い自分の心理としては、何度か「殺される!」と感じた。
当時は、大きくなったらきっと仕返しをしてやる!
と本気で考えていたものだ。
 
両親は郵便局員だったので、毎日帰宅が早かった。
5時半にはもう家に帰ってきていたように思う。
だから晩ごはんの食卓には、常に家族全員がそろっていた。
父も母も温厚で、今を思えばすばらしい環境で育てられたと思う。
 
だが小さい頃は、昼間両親がいなくて淋しい思いをしていた。
ある時そんな思いが高じて「共働きをやめて欲しい」と両親に発言してしまった。
両親は貧しい中から必死で共働きをして家族を支えていたのに、なんてひどい発言をしてしまったのかと今も悔やんでいる。
私の生まれは1960年(昭和35年)9月28日。
日本が高度成長まっしぐらだった時代に生を受けた。
 
今も実家がある三重県亀山市で生まれて、高校時代までずっと亀山に住んでいた。
亀山といえば、昔はローソクくらいしか説明する題材がなかったが、今はシャープの液晶工場がドドンとやってきて、世界の亀山ブランドとして随分有名になった。
 
この企業誘致は当時の知事であった北川正恭氏が主導して、三重県が90億円、亀山市が45億円も費やして実現したことは有名な話だ。

 

生まれたときは借家住まいだった。

その時すでに祖母は他界しており、物心つかないうちに祖父も他界した。
父は長男だったので、祖父と私は3年くらい同居していたようだが、何も記憶がない。
私は父と母、それに兄二人とで幼少時代を過ごした。
 
父と母は郵便局員だった。
共働きだった。
郵便局員といっても当時は国家公務員だ。
父にはことあるごとに「お前が悪いことをしたらクビになるから絶対悪いことはするな」と教育されて育った。
貧しい中で、一生懸命共働きで家族を養うその姿を痛いほど見ていたので、絶対に悪いことはしてはいけないと、自分に言い聞かせていたことを思い出す。
ここでは、私北中が生まれた土地、少年時代、大学時代のエピソードを
シリーズ形式で語っていきたいと思っています。
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